2013年4月30日火曜日

特選名画寸評(追加編)③

リアリズムの宿(山下敦弘)



ロケハンのプランナーの不在によって取り残された二人の若者の居心地の悪さが、第三者の介在等によって浄化されていくまでも描くロード・ムービーの決定版。


何度観ても、笑いを堪えられず、ラストの「小さな救い」では心を打たれ、涙を誘われてしまう80分間の短尺の映画に詰まっているものは、オフビート感満載の滋養ある青春ドラマの訴求力の結晶である。


ひたすら、人間という厄介な存在に興味を持つ作り手の、その観察眼の鋭い切れ味は、決して「空白」の時間に流れない、人間同士の内的交叉が生む絶妙な「間」 の中で、「情感」の出し入れの営為を惜しまない、この国の人々の呼吸のリズムを把握する能力の高さに起因するのだろう。

山下敦弘監督の独特の空気感が支配する、その映像宇宙が縦横に弾けた本作は、癖になるほど面白いオフビートコメディの最高傑作として、今でも、等価交換の不可能な私の宝物となっている。

私の偏見かも知れないが、デビュー2作目の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984年製作)があまりに面白過ぎたためか、いきなりハードルを上げら れて、どうしても、この作品を越えられないように見えるジム・ジャームッシュ監督と比較すると、近作の「苦役列車」(2012年製作)に至るまで、常に高 い水準の映像を発表してきた山下敦弘監督は、私にとって、「桐島」の吉田大八監督と共に、この国にあって、次回作を楽しみにできる数少ない映像作家の一人 である。




暗殺の森(ベルナルド・ベルトルッチ)






雨後のタケノコの如く、鑑賞後、5分もしたら忘れてしまう映画が次々に供給されてくる中にあって、一度観たら一生忘れない映像の切れ味に圧倒された名画 ―― 「暗殺の森」は、私にとって、そんな作品の一つである。


友だちからの虐めの現場を救ってくれた、ファシスト党員の男の自宅に連れられた挙句、性的虐待を受けたリアクションで、その男から渡された拳銃で、思わず射殺してしまった「事件」が、13歳のマルチェロ少年の自我を食い潰すほどのトラウマと化していた。


これが、マルチェロが抱えた否定的自己像の核心を成していたと言っていい


だから、彼は「正常」の象徴としてのファシストに化けようとしたが、化け切れないのだ。

マルチェロは、「普通」の代名詞としての大衆にも同化し得ず、その人生の総体のうちに、観念的・実存的意味を付与することが叶わず、魂が虚空に浮遊する。

そんな男の究極の孤独の様態を、ここまで描き切った作品を、私はあまり知らない。


とりわけ、雪の森でのラストシークエンスの一連の描写は、映像の強度において、言葉を失うほどの訴求力があった。

最後までテロリストになり切れない男の心の脆弱性を、台詞に頼らない映像の的確な提示のみで表現し切った本作は、観る者の心を激しく揺さぶって止まないだろう。

まさに、「映像」と呼ぶに相応しいこの映画は、ベルナルド・ベルトルッチ監督の作品群の中で、最も愛着の深い一篇となっている。



 

やわらかい手(サム・ガルバルスキ)




社会的に支持された規範を「道徳」と呼ぶなら、この「道徳」という規範体系もどきの文化フィールドと隔たった距離にあるだろう、インモラルなイ メージが被された「風俗」に、「無償の愛」の一念で驀進(ばくしん)する「心優しき愛の供給者」をリンクさせることで、その「無償の愛」の「善行」=「高い道徳性の表現」にさざ波を立ててしまう物語構成が、この映画の基幹の骨格を形成している。

 そればかりではない。

 「無償の愛」によって、勇気を持って自らを立ち上げた、世間擦れしていない「心優しき愛の供給者」・マギーの、その人生の本来的な有りようにまで肉迫していくのである。

いつしか、大胆なまでの変容を遂げていく「心優しき愛の供給者」。

「純粋で正直なキャラクター」のマギーは、難病と闘う孫の命を救うために、自らを犠牲にしたはずの風俗ビジネスの最前線に自己投入することで、いつしか、「くだらない噂話」を好む近所の主婦連との表面的な関係を、自らの強い意志で壊してしまうのだ。


何より彼女は、「性風俗」に密かな関心を抱きながらも、「性風俗」の存在を、社会的に支持された規範を逸脱する、卑しいインモラルな何かとしてしか軽侮し 得ない近所の主婦連の差別の視線を突き抜けて、堂々と、根性の座った「大人物」の如き振舞いを身体化し、「今の〈生〉」を、より輝かせる時間に加工するこ とで、それまでの「ぼんやりした〈生〉」の一切を相対化し切って、歓楽街の中枢に自己投入していったのである。

 そこが、この映画の肝であることを認知せざるを得ないのだ。

 「私は、友人の脚本家・フィリップ・ブラスバンドが考えた、政治的でないロマンティックな悲喜劇を作ろうというアイディアが気に入りました。しかし、後に これは資金調達が非常に難しいプロジェクトだということに気付かされます。このプロジェクト実現には長い時間がかかりました。(略)皆がオリジナルの脚本 を探しているのに、実際それを持って行くと、彼らは怖じ気づいてしまうのです」(「サム・ガルバルスキ監督・インタビュー オリジナルプレスより」)

 このサム・ガルバルスキ監督のインタビューで表現されている言葉は、相当に重い。

 「怖じ気づいてしまう」ほどの脚本であるが故に、「資金調達が非常に難しいプロジェクト」を具現したガルバルスキ監督の突破力に、改めて敬意を表したい。

 なぜなら、真に「健全な社会」とは、「性風俗」のような、厄介なる犯罪の温床と切れた、適度な「不健全な文化」を包括するからこそ保持し得ているということを、今更のように想起させてくれる本作の問題提示には、大いに価値があると思うからだ。

 「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう。

 これが、私の率直な感懐である。






恋する惑星(ウォン・カーウァイ)




大人の恋を精緻な内面描写によって描いた「花様年華」(2000年製作)と異なって、「恋の風景」を描いた映画の中で、これほど面白い映画と出会う機会もあまりないと思わせる本作を、一貫して支配しているのは女性である。

 本作の風景を、より正確に言えば、失恋に懊悩する男か、それに近い心理の渦中にある男に対して、雑踏の街の只中で自由に呼吸を繋ぐ女たちが物理的、或いは、心理的に最近接したことで仮構された「恋の風景」の物語である。

オムニバス構成の物語の中で、前半部の「恋の風景」を支配したのは、不在なる失恋相手であったが、その若者の心の空洞を埋めたのが、ダークサイドな物理的風景の渦中を遊泳している金髪 女であったというオチこそ、「失恋の王道」を行く者が占有し切れない物語を、ギリギリのところで掬い取るものだったのだ。

 この一陣の涼風の漂流感が、本作で描かれた「恋の風景」が、より鮮明な意志を持って、後半部の物語の中に引き継がれていく。

 従って、映像構成の変容は、「恋の風景」を明るく彩ることで、男と女の恋に纏(まつ)わる微妙な心理の機微がユーモア含みに拾われていくのである。

中でも、フェイという名の、キュートな女の子が支配する「恋の風景」の自在な世界では、男と女の微妙な交叉がドロドロの肉感的風景に浸かっていくことがなく、「恋の風景」の物語を漂 流する多くの者たちの狭隘な展開に収斂されず、どこまでも、ライトサイジングの相応感の中で軽快に絡み合った後、惚れた男との再会を果たすエピソードは圧巻だった。

 当然ながらと言うべきか、極めてスタイリッシュな映像は、ハッピーエンドの小さな自己完結を予約するイメージの中で閉じていく。

 結局、最後まで女性によって支配された、「恋の風景」の物語の中で語られた心理的文脈には、見知らぬ男女が最近接し、そこで開かれる微妙な感情の機微をリアルに拾い上げつつも、それを一篇のお伽話として括り切った映像の訴求力は、出色のパワーを検証して見せたのである。

さすが、ウォン・カーウァイ監督である。





運命じゃない人(内田けんじ)




ラブストーリーを仮構しながら、緻密な構成力によって、観る者を唸らせる一級のエンターテイメント。


複数の主体が、2000万円の贋金を巡って、それぞれの思惑で交叉した「全身世俗」の〈状況〉を、近年のムービーシーンで流行りの、それぞれの主体が関与 する時系列を自在に往還させながら構築された物語が示唆するものは、言わずもがなのことだが、四次元の時空で人格的に最近接していても、思考や思惑や感情・行動傾向が、「予定調和」の絶対ラインに収斂されるという秩序を保証し得ずに、その様態の逢着点の見えにくさだけが露わになってしまうこと以外ではないのである。

 その関係がどれほど親密であったとしても、相互に情報を共有することは容易でも、感情ラインまでも共有することなど不可能であるということだ。


そんな本作の中で、芯となっている物語の骨格は、それ以外にあり得ない、主人公である「全身誠実居士」の宮田と、彼が偶然に出会った、失恋の痛手で世を儚(はかな)む女性・真紀との微妙な交叉の物語であったと言っていい。

 男に裏切られた女である真紀の悲哀のカットに始まって、「全身誠実居士」の男を裏切った悔いを引き摺る女である件の真紀が、詐欺師の女のバッグから掠め取った金を返戻するために、「謝罪の訪問」をするラストカットで括られる物語を収斂させたもの ―― それは、「運命じゃない人」の「全身誠実居士」が放った、「地球人」離れした、類稀(たぐいまれ)なるパーソナリティの給温効果であった。

 この二人の、「予定調和」のハッピーエンドを印象付ける、僅か90分の映像の括りに至るまで、そこに交叉した特定他者たちとの、「全身世俗」丸出しの曲折 的な展開のうちに、まさに、それぞれの思惑で動く人間学的事象が拾い上げられていて、主要登場人物が5人に限定された物語の中でも、かくまで重層的に交叉する現実を検証するものだった。

 その中でただ一人、親友の探偵屋である神田に、「早く地球に住みなさい!」と言われても、その誠実な人生の自己運動を変容できない男だけが、自らを囲繞す る状況に殆ど関与することなく、昨日もそうであったように、今日もまた真摯な人生を繋いでいくというオチによって、却って、「地球人」である他者たちの滑稽な振舞いを相対化する静かなパワーを秘めていたとも言えるだろう。

最後まで眼を離せない、エンターテイメント・ムービーの訴求力は出色だった。




イヴの総て(ジョセフ・L・マンキウィッツ)




ブロードウェイの大女優のマーゴの付き人となって、そのマーゴまでも踏み台にしてスター女優へのし上がっていく「イヴの総て」を描いた、「三人の妻への手紙」(1949年製作)の名匠・ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の野心作。



抜きん出てクレバーな戦略的野心家であるイヴにとって、情緒不安定な性格を露わにする、大女優マーゴの人間的脆弱さは、その「権力関係」をいとも簡単に反転し得る決定的瑕疵でもあった。

 まず、「情」に訴えて、「付き人」と「雇い人」という「形式的権力関係」を結ぶことで、最大のターゲットの懐深くに潜入して、「万全の付き人」という仕事をこなしていく。

 夢を具現するに足る、緻密な戦略を駆使していくのだ。

 しかし、この戦略が継続力を持ち得ないことを先読みしているイヴは、既に大女優の不興を買うまでに、夢を具現するに足る基本戦略を具備させているから、全て織り込み済みの結果を確認していくのみだった。



自己管理も満足にコントロールし得ない、大女優のずぼらな性格の隙を縫って、批評家のアディソンに取り入り、あっという間にイヴの代役を手に入れ、遂には、自らが主演する舞台をも手に入れるに至るのだ。



しかし、そんなイヴの野心をも支配する男の存在を描くことで、映像の中で初めて驚愕し、慄(おのの)き、泣き崩れるイヴの脆弱性を拾い上げていく構成力は、ブロードウェイでの、「食うか食われるか」の裸形の「勝ち抜き競争」を、アイロニーたっぷりと表現されていて、人間ドラマの一つの達成点を構築し得たのである。







恐らく、数多ある「学園青春ドラマ」の最高傑作と呼ばれるようになるだろう。

 時間軸を巧妙に動かすことで、登場人物の様々な視座を変えていく物語構成において、ガス・ヴァン・サント監督の「エレファント」(2003年製作)を彷彿とさせるが、解答の提示を全くすることなく、心理描写も確信的に削って、僅か80分でまとめあげた一級の映像が構築したのが〈状況性〉であるとするなら、この「桐島」は、唐突に惹起した事態に翻弄される〈状況性〉の中で、揺動する高校生の心理の振れ具合を精緻に描き出すことで、作り手のメッセージが伝わってくる映像に仕上がっている。

 「桐島の不在」の混乱が招来した〈状況性〉の一定の収束点が、閉鎖系の学校空間で、そこだけは解放系の限定スポットとして、天に向かって開かれている屋上であった。

その屋上に、物語の主要な登場人物たちを集合させ、そこで各自の情動が衝突し、炸裂する青春を描き切った構成力の見事さは、「現代の青春」の空気感を鋭く切り取った青春ドラマの大傑作として、映画史に残るに違いない。

群像劇の物語を、僅か100分余でまとめ上げた演出力の精妙さは、その演出によって、活き活きと表現された現代の高校生たちのリアリティ溢れる描写のうちに検証されるだろう。


その演出力の凄み震えが走る程だった。


全てに無駄がなく、且つ、映像表現の力を信じて、最後まで物語を支配し切った吉田大八監督の力量に脱帽した次第である。

「桐島の不在」によって、束の間、揺動するのは良い。


 しかし、「不在のカリスマ」に、もう頼るな。

 「今」、「このとき」の「自分」が持つ力を目いっぱい表現せよ。


それで負けたら反省し、そこからまた、一歩、前に進めばいいではないか。


拠って立つ自らの、アイデンティティの確かさを手に入れる自己運動を簡単に放棄するな。

そう言いたいのだろう。


一切の欺瞞と虚飾に充ちた、奇麗事満載の「青春映画」のカテゴリーを突き抜けて、ここに、「全身リアル」な「青春映画」が生まれたのである。


あまりに面白く、完成度の高い作品だったので、DVDで繰り返し観たが、その構成力と演出力の秀逸さを確認させられるばかりだった。


 驚きを隠せないほど素晴らしい映画だった。





終の信託(周防正行)




素晴らしい映像だった。



「本人は意識がないんです。でも、他人から見て、意識がないように見えても、本当はあるのかも知れない。でも、意識があっても伝えられないんです!口も利けないし、指一本、自分の意思では動かせない。瞬きして、知らせることだってできないんです。もう、苦しみたくない、終わりにして欲しいと、どう思っても、周りの人に伝えられないんです、このことは、医者であっても、自分で経験してみないと分らないことでした。私は自分自身で経験して、江木さんの言うことがよく分ったんです」

調書にサインしたヒロインの女医・綾乃が、なお切々と、尊厳死を求める重篤な喘息患者・江木の苦悶のさまを訴えるシーンである。


ラスト45分における、このヒロインの叫びに震えが走るほどだった。

それは、そこに至るまでの殆ど無駄のない伏線的描写を回収していく、周防監督らしい知的な構築的映像の成就であると言っていい。


ヒロインを演じた草刈民代が、想像以上に「女優」としての表現力を見せつけていて、正直、驚かされた。

何より、とかく偏見視されやすい、喘息患者の身体的苦痛と悶絶の極みを描き切ったこと ―― これが圧巻だった。

そして、尊厳死を求める重篤な喘息患者が、物語のような極限的状況に置かれたときの医師たちの困難な状況を、見事な心理描写によって問題提示したこと。

これが大きかった。

尊厳死に関わる重大なテーマが、今や看過し難い状況になっているにも拘らず、それについての国民的議論を積み重ねていく努力を回避しているように見えるマスメディアと、相変わらず、「厄介」な問題との対峙から逃避している、この国の立法機関等の怠慢によって、物語で描かれたような由々しき状況に追い込まれたときの、決して少なくない医師たちに、根源的な問題の全てを丸投げしてしまう無責任な空気が、この国に蔓延している状況の是非を問題提示したことの意味は、それだけで充分に価値がある。

良心的な医療関係者を孤立させてはならないのだ。

そう思った。





かぞくのくに(ヤン・ヨンヒ)




北朝鮮から脳腫瘍の治療のため、監視人付きで一時帰国が実現したソンホだが、朝鮮学校の教師の仕事に就きながらも、日本で自由に生きてきた妹のリエを工作員にするという密命をも受けてきた重荷が、「かぞくのくに」への帰還が内包する、全体主義の国家で生きることの困難さを炙り出していく。

「そんな大袈裟なことじゃないんだよ。色んな人に会って、話した内容を報告する仕事だよ」

「もし、断ったら、オッパ(兄)に迷惑かかる?もし、引き受けたら、オッパのお手柄になるの?」

「いや、そういうのはどうでもいい」

「ほんとに?全く問題ない?」

語気を強めて、リエは尋ねた。

「ああ、関係ない」

兄の反応は弱々しい。

「全く興味ない!そんな仕事、関わりたくもない!」

堪えていた感情を吐き出すように、リエは、ひときわ語気を強めて言い切った。

兄の辛い気持ちを察する妹と、大切な妹に、このような反応を強いてしまった兄との会話が閉じていったとき、兄の一時帰国が隠し込んでいた目的の一端が露わにされて、もう、これまでの柔和な空気が、虚構でしかないユートピアとしての、「かぞくのくに」の風景の中枢から蹴散らせていくようだった。

柔和な空気の残骸を拾えなくなった物語は、「かぞくのくに」が開いた隙間に吹き込む冷風によって、その情緒的結合力の脆弱さが露わになっていく。

物語は、ここから一気に反転する。

空気が変容したのだ。


 「あの国ではな、理由何て、全く意味を持たないんだよ。あの国ではな、考えずに、ただ従うだけなんだ。考えるとな、頭、おかしくなるんだよ。考えるとしたらな・・・どう生き抜いていくか。それだけだ。あとは思考停止させる。楽だぞ、思考停止。でもな、お前には考えてもらいたい。お前、たくさん考えろ。どう生きるか考えて、納得しながら生きろ」

 井浦新が演じるソンホの、妹に放つこの言葉が、映画の重量感を支え切っていた。

 嗚咽を抑えられない、インディース系の作品が提示する問題の根源性に、震えが走った。


 兄の言葉に反応するかのように、自立的に生きていくリエを演じた安藤サクラ以上に、内深く抱える苦悩を表現した井浦新の抑制的な演技に深く心を打たれ、いつまでも消えない余情が、本作の訴求力の高さを実感して止まなかった。





メランコリア(ラース・フォン・トリアー)




抜きん出た構成力と毒気溢れる主題提起力によって、一級のアートにまで昇華したラース・フォン・トリアー監督の力量を存分に検証した傑作。

自分の内側に抱える根源的問題の提示を、覚悟を括って真っ向勝負で突きつけてきて、それを高い水準の映像にまで昇華させた腕力の凄みに、誰が何と言おうと、私は最大級の賛辞を贈りたい。


とにかく、素晴らしい映像だったと言う外にない。


「灰色の毛糸の絡まり」

これは、ヒロインのジャスティンの精神状態を表わす妄想だが、既に、映像は、繰り返し、深夜のゴルフ場の特定スポットで、蔦を絡ませながら前に進もうとして思うようにならない、ウェディングドレスのジャスティンの妄想のカットを挿入していた。


それは、偏見に晒されやすい「うつ病者」の、言語を絶する精神的不安の様態をイメージさせる印象深いカットだった。

「地球は邪悪よ。嘆く必要はないわ、地球は消えても。私には分る。地上の生命は邪悪よ」

ジャスティンが、姉のクレアに言い放った言葉である

「メランコリア」と命名された惑星の接近を見つめ続けるジャスティンにとって、地球が消え、人類の滅亡が迫っても、全く動じず、落ち着き払っている態度を貫流するのは、「無」になることで、宇宙と同化できると信じるのだろう。

人類滅亡の、その瞬間、「魔法のシェルター」の中で、しっかりと手を握り合う姉妹と甥っ子レオ。

声にならない悲嘆の表情を露わにするクレア。

その姉を優しく見守る妹ジャスティン。

目を瞑って、その瞬間を静かに待つレオ。

本作は、常に「この世の終わりに生きている者」が、「この世の終わりに生きていない者」に対して、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感の「共有」を迫っていく映画である。

「この世の終わりに生きている者」=「うつ病者」の、この心理は、例えば、私の知人の場合、「3.11」(東日本大震災)の際に、「放射能で、日本が滅亡する」などと言って、危機を煽ることで、信じ難い「溌剌さ」を目の当りにした事例によっても検証可能であるだろう。


この辺りの心理を、イメージ喚起力の抜きん出た映像が切り取って、一度観たら忘れようがない「アート」に昇華させたのが本作である。

何より、この映画が素晴らしいのは、後半の「クレア」の章において、「宴」という名の「退屈極まる伏線」を回収した構成力の見事さである。

更に言えば、「3人+1人」という、一家族に集合する人物を特化させて、限定的なスポットで交叉する、感情コントロールの難しい状況に捕捉された者の会話のみで、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感を描き切ったこと ―― これに尽きるかも知れない。

そこには、「メランコリア」の接近を伝えるメディアの描写が確信的に削り取られていた。

不必要な描写を削り取ることによって手に入れたのは、「この世の終わりに生きている者」の恐怖感のリアリティの純度の高さである。


ハイスピードカメラで撮影した冒頭のシークエンスに収斂されるように、まさに「映像」と呼ぶに相応しいアートに結晶されたのである。

さすが、ラース・フォン・トリアー監督である。

従って、本作はズバリ、「うつ病者」の内面世界を描き切った映画であると言っていい。

これが、私の結論である。





蛇イチゴ(西川美和)




「嘘」と「真実」の間に揺れる人間の分りにくさを、決定的に反転された「立ち竦み」のうちに描いた傑作 ―― それが、本作に対する私の基本的評価である。

常に、あなたが「正しき者」であるとは限らない。

そういう当然過ぎるメッセージが、「映画の嘘」の切れ味鋭い構成力のうちに突きつけられたのである。



何より、ブラックコメディ基調のこの映画が素晴らしいのは、観る者に多くのことを考えさせる点にある。



とりわけ、主役二人の兄妹のラストシークエンスにおける心理の振れ方のうちに、それが集中的に映像提示されていた。



決して、描き方に致命的な欠損がある訳ではない。



観る者に考えさせるに足る必要最低限の情報を映像提示した上で、様々なことを考えさせるから、この映画が素晴らしのだ。



 何にも増して、改めて驚かされたのは、映画初主演の宮迫博之の感情表現力の巧みさである。

 作品に恵まれさえすれば、間違いなく、演技賞を独占するだろう。

そう思った。

 これだけの映画を構築できる才能があるのに、その高評価が決定的に定まった感のある西川美和監督の、その後の作品に対して、決して粗悪ではないものの、私個人としては、どうしても観客に媚びるかのような、不要なカットを添える印象を拭えず、残念でならないのである。




西部戦線異状なし(ルイス・マイルストン)





国民・領土・主権を守る軍隊の存在までも否定する、究極の「理想主義」としての「反戦主義」、即ち、「反戦」を「主義」にすることの怖さが、「理想主義」と しての「反戦主義」が具現しないとき、容易に「戦争肯定論」に流れていく脆弱さを露呈する人間的な現象に反転するところにある、と私は考えている。

この反転的な現象は殆ど不可避であると言っていい。

なぜなら、人間がどのような社会を構築しようとしても、「世界は一つ」という究極の「理想主義」を具現するとは、とうてい考えられないからである。

だから、「反戦」という「理想」を「主義」にすることの怖さは、人間が人間自身を相応に統治することなく、「絶対的自由」を保証する社会の実現の困難さを必至にするだろう。

「反戦映画」の傑作としての評価の高い本作を、単に、「絶対反戦」というメッセージを内包した、「理想主義」としての「反戦主義」の激越なプロパガンダと看做 すことができないのは、「主義」にも昇華できないような、薄っぺらな「反戦」を安売りした作品に堕していなかったからである。

情緒的なBGMをガンガン連射させて、「反戦主義」の激越なプロパガンダに象徴されるような、観る者の情動にのみ訴えかけていくという安直な映像構成に収斂されていなかったこと。

 それが大きかった。

 そこで描かれていたのは、数多の「反戦映画」に観られるような、戦争ヒーローの存在のインサートを拒み、一貫して、「戦場のリアリズム」の凄惨さを、時には「記録映画」のような筆致で、概ね淡々と描き切っていたこと。

 これが、何より大きかった。

  「シン・レッド・ライン」(1998年製作)がそうであったように、「戦場のリアリズム」の渦中で死を怖れ、発狂する若者たちの内面風景を映し出すこと で、一過的な情動炸裂によって、一見、「勇敢な戦士」が立ち現われることが可能であったとしても、「戦場」という名の「前線」には、決して「本物の英雄」 など出現しようがない現実をリアルに描き切ったのである。

 これが、本作を「反戦映画」の傑作に昇華させた最大の理由である。



タイム・オブ・ザ・ウルフ(ミヒャエル・ハネケ)





抜きん出て高い論理的思考力を有するばかりか、人間心理の洞察力が鋭い人物が、他の追髄を許さないジャンダルムの如く、優れて構築的映像を世に放つアーティストとして立ち上げてしまったら、殆ど鬼に金棒である。

 紛れもなく、ミヒャエ ル・ハネケ監督が、そんなアーティストの一人であると、私は信じて疑わない。

「ピアニスト」より先に製作予定だった、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」という作品は、一言で説明できないほど、凄いとしか言いようのない映像である。

特に、ダークサイドに彩られた物語のくすんだ風景の枠組みの総体を、根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスの凄みは、ミヒャエ ル・ハネケ監督が、ヒューマニズムに拠って立つ映像作家であることを検証する鮮烈なインパクトがあって、私にとって、絶対忘れられない究極の一作と言って いい何かだった。

出色の映像が居並ぶハネケ監督の表現世界の中で、涙が止まらなかった唯一の作品である。

父母と姉弟の構成による一家族が、冒頭から、一家の大黒柱を喪失するシーンが挿入され、ハネケ監督の映像に馴致していない観客は、ここで、「とんでもない映画」と遭遇してしまったというインパクトを受けるだろう。

何某かの事情で、食糧不足に陥った果ての飢餓状態が、先進国(フランス)の一画で惹起しているらしいことは、物語をフォローしていけば分明になるが、この時点では、単に別荘を占拠した強盗犯による家族の悲劇という印象しか持ち得ない。

全ては、ここから開かれていく。

夜が明けて、別荘から持って来た自転車の荷台に息子のベンを乗せて、当て所(あてど)なく、まるで、世紀末のくすんだ風景の中を彷徨う母子3人。

最後まで、「救済」をイメージさせる「命を運ぶ列車」が、束の間、家族の前を通過すれども、必死に同乗を願う彼らを置き去りにしていく。

そんな家族が、数家族の難民が住み着いていた駅舎に着き、合流する。

まもなく、駅舎の周囲には、馬に乗ってやって来る者との交渉によって、大切な水を物々交換で買う人の群れで溢れ返った。

「助けてくれたら、あなたと寝てもいい」

「6人で2杯しかない」と泣き叫ぶ、一人の主婦の言葉である。

他の家族の初老の男から柔和な言葉が挟まれても、「くれないなら、殺して!と、声を荒げる件の主婦

 一方、二人の子供を抱えるアンナは、馬に乗ってやって来る者に、「自転車と交換して」と懇願するのだ。

馬を縦横に走らせて「仕事」する者に、「自転車」の存在価値が等価性を持つ訳がないのである。

難民たちは、餓死の恐怖と地続きなのである。

 この恐怖が極点に達したとき、映像総体を根柢から反転させてしまう寓話的なラストシークエンスがインサートされたのだ。

 このラストシークエンスのインパクトは、私がかつて観た、いかなる映画の感動の質とも切れていた。

 これほどの映像を構築するハネケ監督の腕力に脱帽し、敬意を表する気持で一杯である。

デビュー作の「セブンス・コンチネント」を嚆矢(こうし)に、全てが「完成形」のハネケ監督の全作品群の中で、この「タイム・オブ・ザ・ウルフ」が、私のベストワンムービーであるのは言うまでもない。



ピクニックatハンギング・ロックピーター・ウィアー





平穏であるから、特段に何も起こらない。

閉鎖系空間であるが、窒息感がないから、退屈さを感じさせる女子寄宿学校の日常性に、生命の再生産を自給するような活力を与えるには、非日常の濃度の高い解放系の時間が必要だった。

聖バレンタインデーでの岩山(ハンギングロック)へのピクニック。

まさに、これが、女子寄宿学校の日常性に挿入された、非日常の濃度の高い解放系の時間だった。

100万年前に隆起してできたと言われる岩山は、人を寄せ付けないような荘厳で、険しい相貌性を身にまとっているが故に、その未知のゾーンに魅せられたように踏み込んでいく、思春期後期に呼吸を繋ぐ少女たちにとって、いつかそこを通らなければならないイニシエーションの臭気の吸引力でもあった。

ゴツゴツした岩場の尖り切った自然が放つ男性的な相貌性は、白いレースのドレスを身にまとう少女たちの、眩いまでの清潔感を漂わせるエロティシズムを際立たせていた。

憑かれたように、岩山に吸い込まれていく少女たちの躍動する情動の氾濫は、まさに、このような特別な時間の中でしか解放し切れない妖しさを秘めているが故に、時として、自分の着地点を性急に求める精神と、成熟を急ぐ身体が、それを待つ非合理の、抑制の利かないゾーンの中枢に呑み込まれることで、一気に炸裂する。

スキルの強固な補完なしに、完全解放系にギアシフトした自我が、時空の歪みに嵌ったような、ラインの曖昧な世界で漂流することによって、いつしか、自己の拠って立つ中枢への拘泥感が希薄になり、〈生〉と〈死〉ゾーンの視界が捕捉できない内的風景を露わにするだろう。

思春期後期に呼吸を繋ぐ自我が、イニシエーションの臭気の強力な吸引力に手繰り寄せられていくのだ。

「魔」のゾーンに搦(から)め捕られてしまったのである。

―― 想像以上の出来栄えの凄さに圧倒された。

ピーター・ウィアー監督は、本作の中で、観る者の好奇心を誘う、最も肝心な辺り(「事件」、或いは「事故」の真相)を最後まで映像提示することなく、自己完結させたのである。

これほどの凄みのある映画が、40年近く前に作られたこと自体、驚きに値すると同時に、感謝の気持ちで一杯でもある。

肝心なことを何も語らなかったことによって、私を存分に考えさせてくれたからである。

 「語り過ぎない映画」の残像感覚の凄み。

これが、本作を貫徹していて、私によって、何ものにも代えがたい、等価交換不能な「宝物」になっている。



田舎司祭の日記ロベール・ブレッソン




ロベール・ブレッソン監督の個性的な映像には、一切の欺瞞と虚飾を唾棄する強靭な作家精神溢れる苛烈さが貫流していて、観る者を圧倒する凄みがある。

本篇の「田舎司祭の日記」でも、一貫して感傷を排除し、青年司祭の孤独を容赦なく抉り出していくのだ。

そこで描かれた、不断に試練を受ける青年司祭の孤独が極まったとき、もう、そこには報われぬ煩悶の日々の最終局面としての〈死〉が迫っていた。

「祈れない。祈りたいという願いが、発展することはなかった。疑問も抱かなかった。祈りが必要だったのに、肺に空気が要るように、血に酸素が要るように、私の背後に、もはや日常生活はなかった。前にあるのは壁。黒い壁。突然、何かに胸を貫かれた気分だった。一時間以上、震えが続いた。幻覚だったのか。聖者もこんな経験を? ベッドの足もとに横たわり、すべてを委ねることを、神に示そうとした。いつもと同じ孤独、沈黙。でも今回は、乗り越えられそうもない。実は障害などないのだ。神に捨てられた。そう思った」

この青年司祭の内的風景は、あまりに陰鬱であり、救いがなさ過ぎる。

神に捨てられたという境地に陥った青年司祭が、迫り来る〈死〉の恐怖に捕捉されたとき、ギリギリの際(きわ)の心境下で言い放った。

「それがどうした。すべては神の思し召しだ」

一人の若者の覚悟を括ったラストメッセージに、震えが走った。

何をやっても報われない人生を振り返ったとき、磔刑という、言語を絶する苦痛を強いる処刑の瞬間に、思わず、神を疑って叫びを上げた「イエスの孤独」こそ、青年司祭が最も親近感を抱く内的風景の様態だったのか。

「イエスの孤独」を想起する青年司祭の心の風景は、自分もまた、それがどうしたと開き直る心境に辿り着くことで、人生の最後の瞬間に、すべては神の思し召しだという思いを持ち得たのではないか。

観る者の心に、こ れほどまでに迫ってくる映像のパワーの源は、このような映画を構築せねばならないメンタリティを持つ作り手の、何かそこだけは、「譲れないものを持つ者」 の意思の中で結ばれていているイメージが全篇に漂っていて、それが「強い映像」を構築し得た推進力になったのであろう。

暗欝だが、綺麗事を唾棄するこういう作品こそ、私が最も好む映像である。



セブンス・コンチネント ミヒャエル・ハネケ




これだけの作品を、デビュー作から構築してしまうこの監督の力量に脱帽する。

ミヒャエル・ハネケ監督が、現代最高峰の映像作家と呼ぶことに、私は今や躊躇いがない。

 それにしても、これだけの作品を世に放つ才能を持ちながら、50歳近くまで一本の映画も作っていなかったという事実に、よくもまあ、韜晦(とうかい) して居られたものかと思うこと頻りである。

それは冗談だが、編集者・脚本の仕事を手がけていたテレビ局や、舞台監督仕事で多忙を極めていたのだろう。

狭隘な鑑賞眼によって「一刀両断」され、今なお、悪罵のターゲットに晒され続けている、「ファニーゲーム」(1997年製作)のアイロニーに内包された破壊力のレベルと比較するとき、一家心中に振れていく家族の内的風景どころか、他者の介在まで否定され、最後まで、外部環境との接続を断った閉鎖系の世界のうちに自己完結していく本作の「セブンス・コンチネント」の衝撃度は、言語を絶するほど突き抜けている。

観る者は、この家族それ自身の存在に不安を覚え、「この家族、絶対におかしいYO!」(レビュー)という簡便な結論に落ち着くことで、自我を武装解除する。

テロリストなら問題ないだろう。彼らを「狂人」と思えばいいだけのこと。

しかし、この3人家族は違う。「狂人」と言い切れないから厄介なのだ。

それでも、肝心要のモチーフの「分りにくさ」の問題が尾を引いてしまう。

だから、害を与えるべき特定他者の存在を必要とするテロリストと、そこだけは切れるが、特定他者の存在を必要としないこの家族もまた、「狂人」と思えば不気味な不安から解放されるのだ。

或いは、自分が納得し得るラベリングを、この家族の常軌を逸する行為に貼り付ければいい。

しかし、本作の得体の知れない「分りにくさ」は、ハリウッドの映画文法を壊すことが主目的だった「ファニーゲーム」を呆気なく突き抜けていた。

本作が社会全体のタブーに抵触していたからだ。

「子供は問題なかった。そして予言通り、何人もがドアを鳴らして劇場から出て行った。上映の度に、必ずこうした抗議行動 起こった。タブーだからだ。通貨を破壊する方が、親が我が子を殺すよりも遥かにショックが大きい。社会全体のタブーなんだ。これは私の独創じゃない。新聞の記事に、一家がそうしたと書いてあった。私が思いつけたかどうか分らない。実際に一家は銀行に行き、全財産を引き出して捨てた。警察は金を回収できなかった。コインが皆、底に詰まってしまって、そのために便器を壊すしかなくて、全部壊したんだ」(ハネケ監督の言葉)

 これ以上触れないが、この映画を観て、ここで提示されたラジカリズムに全く関心を持てず、自らの思考にまで知的稜線を伸ばす営為に意味を見つけ出せない人は、ハネケ作品を観ても不快を感じるだけだろう。

 それでもいいと思うが、「分りにくさ」と共存するメンタリティを観る者に求めてくるハネケ作品を、「分りにくさ」の故に非難することだけは止めた方がいいと思う。

必ずしも私は、、ハネケ監督の世界観に共鳴する者ではないが、全作に共通する水準の高い映像をここまで見せつけられてしまうと、思想性や世界観の懸隔感などどうでもよくなってしまうのだ。

途轍もなく明晰な頭脳を持った映画監督の仕事が、一本でも多く観られるように切望して止まない次第である。



わが心のボルチモア (バリー・レヴィンソン)




「古き良き時代のアメリカ」を描いただけの、フラットなノスタルジー映画に終わっていないところに、この映画の素晴らしさがある。

 嘘臭い感動譚と予定調和の定番的な括りによって、鑑賞後の心地良さを存分に保障してしまう、数多のハリウッドムービーに集約される、「面白ければ何でもいい」という世界と、この映画は明瞭に切れている。

 だから、あまり観られることのない作品だが、私としては、そのような作品をこそ好むので、邦題名が見事に嵌った本作が、一級の名画であるという評価には全く揺るぎがない。

過剰な感傷と馬鹿げたストーリー展開と、大袈裟な演出。

これが完璧に捨てられていた。

そこが最高にいい。

 本作は、バリー・レヴィンソンの作品の中で、「レインマン」(1988年製作)と共に、私が最も大好きな映画。

東欧からの移民一家に生まれた少年の回想として描かれる極上の物語は、親戚縁者が助け合って、「アメリカン・ドリーム」を求めながらも、新旧の世代間の価値観の確執を内包しつつ、縁者内部の経済的成否の問題が、いつしか「大家族共同体」の亀裂を生み、それが修復困難な辺りにまで流れていく人生の現実を、一片の感傷を交えず描き切った秀逸さによって一級の名画に仕上がっていた。

 その「アメリカン・ドリーム」を求める男たちの象徴として描かれていたのは、独立記念日の祝祭に湧く盛大なパレードやイベントが開催され、「移民の国」の蠱惑的(こわくてき)な風景の中枢のスポットに魅入られた男が胸躍らせるオープニングシーンだった。

大いなる期待が身過ぎ世過ぎの不安を抑えて、「移民の国」に身を預ける者たちの思いを、眩いばかりに煌(きらび)やかなフォトジェニック映像美のうちに特化され、切り取られていたシーンこそ、まさに、そこに「アメリカ」がある限り、皆、「アメリカ」になりたい者たちの心の風景なのだ。

風景の劇的な変容の中で描かれた物語の後半のシークエンスには、人生の悲哀が漂っていた。

しかし、そんなことで全てを失って、自壊していくような男だったら、このような物語が生まれなかっただろうというメッセージが、私の耳に届き、感覚器官の中枢にストレートに入り込んできた。

この地味な映画を観ながら、涙が止まらず、必死に堪えるのに難儀したほどである。



魚影の群れ(相米慎二)




微塵の妥協を許さないプロフェッショナルな映画作家の手による、「全身プロフェッショナル」の映画の凄みを改めて感じさせてくれる一級の名画である。

1か月のロケの中で、「演技指導は行わず、役者が内面から自然な感情を表わすまでじっくりと待つ」(NHK・BS「邦画を彩った女優たち」より)プロフェッショナルな映画作家にとって、「まずは、役者さんの芝居が固まるまで、初日から60回、70回のテストをする」(同上)徹底ぶりは、プロの役者魂の表現を引き出すための、それ以外にない演出の戦略だった。

 そこで引き出されたのは、「精神的に追い詰められて、最後はもう、本番終わったら海に突き落としてやる」(同上)とまで言わしめるほど、自分の夫の生命の安否を気遣って、内面的に震えつつも、必死に耐えるヒロインを演じ切った夏目雅子の女優魂である。

その夏目雅子の芝居が固まるまで緊張感を保持し、何の指導も受けることなく、待たされ続けたのは、伝説的なマグロ漁師を演じた緒方拳。

 マグロ漁で有名な、下北半島・大間という、津軽海峡に面する漁師町に呼吸を繋ぐ人々の生活の律動感の、その漁民の日常的風景の視線のうちに俳優が溶融し切るまで、突き放すように待機する映画作家の苛酷な演出が、ここでもまた、切っ先鋭い刃となって炸裂する。

待たされ続ける俳優の緊張感が苛立ちを募らせ、それが噴き上がっていくぎりぎりの辺りで、クレーン移動を駆使しての、くどいほどのワンシーン・ワンカットの長回しによるカメラが捕捉する。

だから、これは凄い映画になった。

「魚影の群れ」という驚嘆すべき一篇は、父娘の役を演じた緒方拳と夏目雅子との、迸(ほとばし)る俳優魂の化学反応の結晶であると言っていい。

この国にあって、当時、「最高表現者」という「勲章」を付与するのに相応しい、緒方拳の表現の総体が完璧であるのは織り込み済みだが、その「最高表現者」の演技に屹立し、火花を散らせた夏目雅子の表現の総体もまた、観る者に、鮮烈な印象を鏤刻(るこく)させる訴求力の高さにおいて決定的であった。

下北・大間の方言を、殆ど完璧に内化したプロの俳優による徹底したリアリズムが、本作の生命線を成して、苛酷な北の海で生業(なりわい)を繋ぐ漁師と、それを見守る女の生きざまの悲喜交々(ひきこもごも)の物語を、ワンシーン・ワンカットの長回しのカメラが、〈生〉と〈性〉の切れ目のない呼吸の生理的運動のうちに写し取っていくのだ。

もう、それ以上、上がり切れない辺りにまで自らの表現総体を上り詰めていった女優の、内側から湧き上がる叫びに動揺したとき、そこでは今や、プロの役者魂の表現を引き出すために、60回、70回のテストを厭わず、何もアドバイスすることなく、ずっと待機し続けた映画作家の苛酷な演出が成就したにも拘らず、そこで惹起した風景は、プロの役者魂が開いた、未知なるゾーンに吸収されていく映画作家の、反転的情感体系の裸形の相貌だったという訳だ。

 そこまで上り詰めていく、プロの女優魂の炸裂のピークアウトの壮絶さ。

 それを、弱冠25歳の夏目雅子が表現し切ったのだ。

 本作は、紛れもなく、夏目雅子の最高到達点である。

 言葉を失うほどの素晴らしい映像に、嗚咽を堪えるのに苦労したが、それでも泣かされてしまった。

 夏目雅子の女優魂の表現の炸裂に、お手上げだったからである

 相米監督の映像の中で、唯一、泣かされた作品だった。



アギーレ/神の怒り(ヴェルナー・ヘルツォーク)




一度観たら、一生忘れないようなパワーを持つ映像だった。

「海に出たら大きな船を作り、北を目指す。スペインからトリニダードを奪うのだ。更に北上して、メキシコを奪う。何という大いなる反逆だ。そして新世界を手に入れる。この手で歴史を作るのだ。俺は神の怒り。我が娘と結婚し、この地上に比類のない純潔の王朝を築くのだ。やり遂げるぞ。俺は神の怒り。俺に従う者は誰だ」

「狂気」を食(は)み、恐怖を喰い潰すほどの「大狂気」を心理的推進力にする男にとって、こんな「マニフェスト・デスティニー」を公言することで、次々に襲い来る「敵」を呑み込んでいく。

男には、真に怖れるべき「敵」など存在しないのだ。

16世紀のこと。

伝説の黄金郷目指して、スペインからアマゾン奥地に旅立つ分遣隊の副官アギーレは、クーデターを起こした挙句、不気味な風景が広がる「異界」への侵入によって、本来の「大狂気」を露わにし、今や、この男は「神の怒り」を代弁する絶対者と化していた。

二つの本質的に異なる「狂気」に肉迫した映像が放つ、異様な臭気の共存の中で、生き残るのは、言うまでもなく、圧倒的な凄みを見せるアギーレの「大狂気」であった。

本作は、先住民の大量虐殺やインディオ女性を強姦した、メキシコのコンキスタドーレスが犯した文化破壊の蛮行を、真摯な社会派的な視座で指弾する意図を持ち、そのイメージのうちに収斂し得る映画と切れて、このような男の「大狂気」の異様さを際立たせる存在としてのみ立ち上げられた、壮絶なる〈生〉の自己運動を描き切る物語のようにしかイメージし得ない映像だった。

それは、如何なる苛酷な状況に置かれても、自分の強靭な意志を決して曲げることなく、「大狂気」に振れていく男の、一種異様な酩酊状態の極限的な様態を、不特定他者を射抜くような眼光だけで演技する、クラウス・キンスキーという稀有な能力を持つ俳優に憑依させて、その「大狂気」の総体を映像提示したと思わせるに充分なほど、個性全開の暴れ方だった。



櫻の園(中原俊)




地方都市にある私立櫻華学園高校演劇部では、創立記念日にチェーホフの「櫻の園」を上演することが、桜咲く陽春の日の伝統的な「年中行事」となっていて、多くの不特定他者の観劇を吸収するビッグイベントだったが、演劇部員の「喫煙事件」によって、今年の上演が中止されるという情報が伝わるや、演劇部員たちの心が大きく騒ぐ。

 この「ハレ」の日に合わせて、パーマをかけた髪で登校して来た演劇部長の志水由布子の行為には、「しっかり者」という固定化されたイメージを、変換させる意思を身体化させていた一方で、「櫻の園」の上演をあっさりとスルーし、できれば〈状況〉から逃避したいと念じる演劇部員もいた。

背が高いため、男役専門であった倉田知世子である。

知世子にとって、「櫻の園」のヒロインであるラネフスカヤ役を演じるという役割の重さは、何にも増して苦痛以外の何ものでもなかったからである。

倉田知世子のナイーブな自我が負った苛酷な「通過儀礼」 ―― それが、「櫻の園」の舞台の重量感だったのだ。

それでも、苛酷な「通過儀礼」を突破せんとする努力を繋ぐ知世子の性格の真面目さは、誰もいない校内の廊下で、必死に台詞を暗誦する行為に集中的に表現されていた。

 そんな浮足だった3年生を前にして、途中、叫んだり、嗚咽を結んだりしながら、広い部室の中で、一気に自分の思いを吐き出す、2年生の城丸香織の長広舌が空気を変えていく。

 「他の先生は皆、来年、来年って簡単に言うけれど、来年って、今、3年の先輩たちが皆いなくなって、なりたくても、なりたくなくても、私たちは皆3年になっていて、それで同じように創立記念日が来て、『桜の園』やって、そのときもやっぱり桜なんかいっぱい咲いていて、それって多分、今年と同じだと思うし・・・今年と同じって言うか、その前の私たちが入学する前も、ずーとずーと同じだったと思うんです。先輩たちは今年しかないんですよ!私たちには、来年しかないんです。それしかないんですよ。あたし、毎年毎年、同じように咲く桜って、なんか許せないって言うか・・・こっちは次々、卒業して行くっていうのに、全然変わらないのなんて・・・そんなの・・・」

 本作を通して、最も重要なシーンだった。

 この長広舌が意味するものは、多くの3年生の演劇部員にとって、まさに「今年」の「櫻の園」の上演は、どうしても突き抜けねばならない「通過儀礼」の意味を持ったという現実の認知である。

要するに、女子高演劇部の様々に交叉する人間模様を繊細な筆致で描いた本作は、単なる「年中行事」であった、幾分特化された学校イベントを、突発的事態の惹起に起因する様々なる校内の揺動を推進力にすることで、その凝縮された時間に詰まった熱量の自給の分だけ、眩い輝きを放つだろう「通過儀礼」に変換させた物語だったのだ。

見事過ぎる映像構成に息を呑むほどだった。




ベニーズ・ビデオ(ミヒャエル・ハネケ)




このとんでもない才能を持つオーストリアの映画監督の完成形の作品を観てしまうと、必ずと言っていいほど、私は次の映画の批評に入る気分が失せてしまう。

情緒過多・説明過多で、不必要なまでにBGMを多用する映画の批評に向かう気力など、とうてい起こりようがないのだ。

何かどうしようもなく、それ以外の映画が稚拙に見えてしまうのだが、しかし、このような映画の見方は、決して歓迎すべき心的現象ではないことは重々承知しているから、厳として戒めている。

それにしても、この「ベニーズ・ビデオ」が内包する問題提起の根源性に絡まれて、思わず竦んでしまった。

ビデオ撮影マニアのベニー少年が、ビデオ店を覗いていた少女を自宅に誘って、豚の屠殺ビデオを見せた後、父親が勤務する屠殺場から盗んだ屠殺用のスタンガンを見せたことが、少女殺しに繋がってしまったとき、映画の風景が異様な変容を見せていく。

ベニーの部屋に設置されたカメラが、事件の一部始終を記録していたのだ。

そこで記録したビデオを両親に見せることで、両親の意外な反応に当惑するが、この当惑が、観る者の想像を超えるラストシーンに結ばれていく。

「まともな人間は、お前を含めて皆、社会の一員として決まりの中で生きている」

「スクリーンの中のスクリーン」の「現実」を知らされたとき、こんな常識的なことを言っていた父が、怒鳴ることもせず、「誰かに気付かれたか?」、「眠れそうか。明日は登校するな。何か食べて、もう寝なさい」などという自己防衛的な反応をするばかりなのだ。

その直後、別室にこもって、両親が相談するシーンが映像提示される。

当然の如く、「議論」のイニシアチブを取るのは、べニーの父。

「仕事への影響も大きい。通報せずに済む方法は、一つ、始末・・・」

 ここで思わず、妻は笑ってしまう。

日常性からあまりに乖離した、違和感を覚えさせる言葉が、夫から発せられたからである。

人間の心理を鋭利に切り取る会話の挿入に感嘆するばかりだ。

事件後、べニー少年は、その母とエジプト旅行に出ることで、有罪性の意識を希釈化させるアンモラルな行動に振れていくが、すっかり「死体」の後始末を終えた父の待つ自宅に帰宅したときの、父子の会話があった。

 「聞きたいことがある」
 「何?」
 「なぜ、あんな事したんだ?」
 「あんな事?・・・分らない。どんなものかと思って。たぶん」
 「どうかって・・・何が?・・・そうか」

これだけである。

どんなものかと思って・・・これは私にとって、現実と関わりを持てない人間の言葉だ。なぜなら、人はメディアを通して、人生を知り、現実を知る。そして欠落感を覚える。僕には何かが欠けている。現実感がないと。もし、私が映画しか見なければ、現実は映像でしかない」

ハネケ監督の言葉である。

「どんなものかと思って・・・」というべニーの言葉に張り付く感覚は、ビデオ三昧の生活の日常性のうちに拾われた「現実感覚」の中で、既に少年の未成熟な自我が、限定的な生活のゾーンで入手した情報吸収の感度を既定する、経験的なアクチュアル・リアリティ(現勢的現実)の様態を希釈化させている事実を端的に検証していると言っていい。

「ベニーズ・ビデオ」は、ハネケ監督の映像群の中でも、リアルな現代社会が抱える問題のの根源性において、飛び抜けて衝撃度の高い作品で、ごく普通に、テーマ性に則っただけのアンチテーゼ的な作品に過ぎない、「ファニーゲーム」 (1997年製作)を観て大騒ぎする数多の観客の存分なナイーブさが、却って滑稽に思えるほどだった。


世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶(ヴェルナー・ヘルツォーク)




「編集後記」の「白いワニ」の挿入に違和感を覚えたが、ドキュメンタリー作品として秀逸な本作に対する私の評価の高さは変わらない。

1994年に、ラスコー壁画を遥かに上回る大発見であった、南仏で発見されたショーヴェ洞窟の奥に広がる洞窟壁画に、現代のアーティストであるヴェルナー・ヘルツォーク監督が対峙し、3万2千年前の無名のアーティストによって描かれた「美」に肉薄する映像の魅力は、現代文明の利器である3Dカメラに記録されたことで、時空の壁をを超える圧倒的な臨場感を弥増(いやま)していく。

それは、貴重な遺跡を守るため、研究者や学者にのみ入場が許可される、この特定スポットに緊張感を持って踏み入れていく撮影クルーが敢行した画期的なプロジェクトには、撮影日数が1日4時間で計6日間、更に4名限定という制約があり、まさにプロ意識の抜きん出た者たちによる果敢な仕事だった。

そんな中で構築された映像の魅力の一つに、個性的な研究者らによるインタビューがある。

中でも、私にとって、最も合点がいくインタビューは、ショーヴェ洞窟調査プロジェクト責任者・ジャン=ミシェル・ジュネスト氏の話。

氏は、「人間らしさ」について語っていく。

 「人間らしさとは、世界に上手く適応できること。人間の世界は、外の世界に適合する必要があります。風景や他の生き物、動物、他の人間のグループ。彼らと コミュニケートし、更にその記憶を刻み込む。ある特定の非常に固いものの上に、例えば壁や、木片や骨に。これがクロマニヨン人の発明です。動物や人間のが発明されることによって、未来への伝達が可能になったのです。過去の記憶を情報として伝えるには、は、どんな伝達手段よりずっといい方法です」

生存適応能力に優れ、狡猾なまでにクレバーだったクロマニヨン人の強(したたか)かさこそ、苛酷な氷河時代を生き抜き、優れた洞窟壁画をも残したばかりか、 動物や人間のを発明し、それを有効な伝達手段として使用した、まさに「全身最適戦略者」の本領発揮ではなかったのか。

だから、クオリティの高いこの作品は、少なくとも私には、クロマニヨン人の圧倒的な強かさに思いを馳せる映像になった。



月世界旅行(ジョルジュ・メリエス)




ここでは、メリエスの代名詞でもある「月世界旅行」ではなく、このような作品を創った男の生き方に強い関心を持つので、彼の孫娘が残した伝記を下地にして、メリエスの「夢を具現する能力」の天才的な人生の振れ方に言及したい。

ジョルジュ・メリエスの「夢を見る能力」は、それを具現させる凄まじいパワーによって、あっという間に「夢を具現する能力」を検証してしまった。

何より、あらゆる芸術に深い関心を持ち、それを次々に実行に移していくのである。

オペレッタを確立したフランスの作曲家・ジャック・オッフェンバックに会いに行き、フランスの象徴主義の画家・ギュスターヴ・モローに絵画を学び、同様に、フランスの象徴主義の詩人・ポール・ヴェルレーヌから詩について教えを受け、クロード・ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」や、フランス の小説家・アルフレッド・ジャリの初演に立ち会うなど、常に最先端の芸術家たちと接触している。

明らかに、この一連の行為は、一介のマジシャンの範疇を超えている。

まさに、「天才」という概念に最も相応しい定義とも言える「激情的な習得欲求」が、靴職人の息子の心を駆動しているのだ。

20世紀における大衆芸術としての映画の基礎を作ったメリエスは、19世紀から20世紀にかけてのパリという、最も創造的な時代の躍動の渦中に身を投げ入れることで、特化された状況が放つ芳香を嗅ぎ、それを貪欲に吸収・内化していったのである。

メリエスの心理的推進力は、大衆を歓喜させ、躍り上がらせるような「快楽装置」を発明せんとする「激情的な習得欲求」であった、と私は考えている。

幸いにして、メリエスの「夢を見る能力」は、「夢を具現する能力」に繋がっていくので、彼には休む間がなかった。

パリ近郊のモントルイユに、日射のある昼間時は、照明なしでも撮影できる巨大な映画スタジオを建てたからである。

ロベール=ウーダン劇場でのイリュージョンの夜間興行をも兼務するメリエスにとって、モントルイユの映画製作に心身を投入すればするほど、「夢を具現する能力」の炸裂が、激務に耐えるに足る困難な状況を拓いていく。

矢継ぎ早の映画製作に、メリエスの「夢を具現する能力」が実を結んでいくのだ。

魔術師メリエスの人生の一つのピークが、「月世界旅行」の国際的成功だった。

月の目に宇宙船が突き刺さる、有名な絵のポスターを作ったアイデアが奏功し、大衆を歓喜させ、躍り上がらせるような興奮を生み、それを見た見せ物商がプリントの購買に走ったからである。

「私は、大富豪になりそこねましたね」と語ったメリエスが、「おかげでこの映画と私の名前は、一夜にして世界中に知れわたることになったのです!」と言ってのけた態度の在りようこそ、良かれ悪しかれ、「実業家」として成功せんとする貪欲さと、その能力に欠如した男の真骨頂を示すエピソードであるだろう。

同時に彼は、映画製作者としてのリアルな視座を鍛える能力においても、「時代の先端児」に化け切れなかったようにも思える。

映画製作者としてのメリエスの劣化は、オリジナリティのある映画の供給の頓挫や、他者の作品の模倣行為などに露呈されているだろう。

当然、興行的には失敗する。

「手品師メリエス は一生の間、絶えずマジックを見せてきました。子供たちに夢を与える店で人生の最期を迎えるというのは、彼にとって本望だったかもしれません。映画でお金を稼いで大会社を作り、会長の椅子に座ったフランスや米国の実業家のようになっていたら、果たして幸せだったでしょうか。彼は多くの伝説的な偉大なる発明家と同じく、貧しいままに生涯を終えました」

メリエスを尊敬して止まなかったルネ・クレールの的確な言葉である。

ルネ・クレールも言うように、「メリエスは、正真正銘の魔術師」なのである。

その人生も、「幻想の人メリエス」=魔術師のメンタリティを、生涯にわたって持ち続けてきた者の、「地中海的な活力と陽気さ、創造力」に充ちた男の「人間的な温かみ」溢れる悔いなき軌跡そのものなのだ。

財産を失った者の全てが、決して卑屈な性格になる訳ではない。

財産を失った者=悲哀の人生という簡便な括りによって処理されるほど、メリエスという稀有な男は、私たち俗人が決め打ちする、狭隘なストライクゾーンのうちに収斂されるような、既成の標準サイズの規格設定によって測られるレベルの「何者か」ではないのだろう。

そして、これを裏付けるように、孫娘のマドレーヌは、祖父の伝記本の最後に、こう書き記したのである。

「何よりもまず、その精神の若さにおいて、彼は生涯、子供の夢に忠実だったと言えるだろう。彼を熱烈に尊敬したアンリ・ジャンソンは、こう書いている。『メリエスは紳士だった。彼は一生、少年のままで通した立派な紳士だった』」

「夢を見る能力」が、「夢を具現する能力」に繋がった男の真骨頂は、「一生、少年のままで通した立派な紳士」であったが故に、今も映画史の中で語られる、「特異だが、決して後悔しない人生」を駆け抜けていった、様々に動き廻る彼の人間的事象の一切に包括されているのだろう。



 

 

 












 


 





 

 

 

 

















 

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