2013年2月3日日曜日

特選名画寸評(追加編)①


別離(アスガー・ファルハディ)



アスガー・ファルハディ監督の前作である「彼女が消えた浜辺」(2009年製作)を初めて観たときの興奮と感動は、今でも脳裏に鮮烈に焼き付いて離れない。

それは、当局との検閲との関係で、愛らしい子供を主人公にした癒し系の映画の風景とは全く違う、イラン映画であったということ。

素人の子役を多用してきた故か、ペルシャ語の読解ができなくても、明らかに、一本調子の台詞の応酬に馴れてきたこともあって、いつしか、イラン映画のイメージが固まってしまっていたようだ。

そんなときに観た「彼女が消えた浜辺」の凄みは、大人の俳優が素晴らしい表現力を具現化し、「非日常」の厄介な事態に遭遇したときの人間の心の振幅を精緻に描き切って、震えが走る程だった。

「別離」もまた、似たようなテーマの延長線上にあるが、群像劇であった前作と違って、二つの家族に特定された登場人物が紡ぎ出す、その圧倒的な表現力に完全に脱帽の状態だった。

ほどの映画監督がイランに在住していて、且つ、人間の根源的な問題を決して声高に叫ぶことなく一貫して静謐な画像の提示のうちに表現された小宇宙を目の当りにして、私は今、世界で最も高い水準の映画を作り続けているマイク・リー監督やミヒャエル・ハネケ監督などが、既に老境に入っていることを思えば、韓国のポン・ジュノ監督と共に、21世紀の映画界に重要な足跡を残す作品を作り続けるであろうことを確信して止まないのである。

「別離」 ―― この映画と出会えた僥倖に感謝する思いで一杯である。



無言歌(ワン・ビン)




言葉で言い尽せないほどの凄い映像が飛び込んできた。

1950年代半ばから60年代末にかけて、中華人民共和国を建国した中国共産党は、当時6億を超える人々が、寒帯から熱帯までの気候を網羅する広い国土の土手っ腹で、激越な権力闘争を繰り広げてきた。

「社会主義」という大義の名の下に、一人の独裁的な権力者の野望が暴れてしまった挙句、数千万人単位の人々の命が犠牲にされたのである。

その端緒となったのは、1957年に毛沢東が発動した「反右派闘争」。

「百花斉放百家争鳴」という、党への批判の歓迎を受容する主旨の下で、「プロレタリア独裁を全民独裁と言うべきである」という意見を具申しただけで、「反動右派」のラベリングされた人々が、およそ食い物のない砂礫の大地の穴蔵深くに閉じ込められ、「約束された衰弱死」を待つだけの人生を過ごさなければならない のだ。

眼を覆わんばかりの悲惨な現実を淡々と抉(えぐ)り出し、「人間の尊厳」を死守せんとする男のエピソードを拾い上げて、それをドキュメンタリーと思しき冷厳な筆致で描き切った映像の凄みは比類はない。

「私は自分の時間を無駄にしたくない」というワン・ビン監督のコメントに触れて、殆ど絶句する思いだった。



グッドフェローズ(マーティン・スコセッシ)





本作は、「凶悪な犯罪者」の「素質」を持たない若者が、その本来の軽佻浮薄な性格の延長線上で踏み込んでいった「ギャングゲーム」において、自らの生命の危機に立ち会ったとき、犯罪の推進力となっていた一切のモチベーションが剥落したことで、「リアルなギャングの生態」の異臭を全人格的に吸収し得ない、その脆弱なる裸形の生きざまを晒すに至った男の物語であった。

  そして、その男の視線を通して炙(あぶ)り出された、「本物」の「ギャング」たちの醜悪な相貌性を抉(えぐ)り出し、徹底した自己基準によって平気で人を殺める、私利私欲に塗れた彼らのインモラルな生臭さを、どこまでも観る者の感情移入の導入口を排除するリアリズムで押し切ることで、骨の髄まで性根が腐っている、組織暴力の爛れ切った生態を描き切った究極の一篇だった。

  「美学」、「格調」、「感傷」、「ロマン」、「寡黙」、「静謐」、「憂愁」、「悲哀」、「沈潜」、「沈鬱」、「品位」、「矜持」、「重厚」等々という、 「仁義」と「掟」が表裏一体となって機能している分だけ、「私欲」の暴走を限りなく抑制し得るギャング組織を描いた、「ゴッドファーザー」(1972年製作)の完成度の高さと対比するという一点において、恐らく、本作を超えるギャング映画は未だ作られていない。

  「私欲」、「軽薄」、「情動」、「卑劣」、「背馳」、「哄笑」、「下劣」、「醜悪」、「邪悪」、「ハイキー」、「生臭さ」、「俗臭」、「浮薄」、「軽 佻」、「愛嬌」等々、という特性的観念を包含させて、組織暴力の生態をリアルに描き切った、マーティン・スコセッシ監督に快哉を叫びたい思いで一杯である。




 ツリー・オブ・ライフ(テレンス・マリック)





私のお気に入りの映像作家の一人であるテレンス・マリック監督は、「シン・レッド・ライ ン」で提示した、悠久なる自然の包括力に身を任せ、何もかもあるがままに推移する世界に則して生きる、南太平洋の原住民たちの人生の様態の普遍性を宇宙規 模にまで広げて、人間のみならず、地球に存在する一切の生命を包括する森羅万象のうちに〈神性〉なものを見る汎神論的な世界観を、映像構成の類稀で、超絶 的な技巧によって極限の映像美にまで昇華させつつ、儚くも一瞬の「夢」を求めて生きる人間の生態を描き切る思いを捨てることのない、限りなく「全身アー ト」の映像宇宙を構築して見せたこと ―― それ自体、既に驚嘆すべき出来事だった。

従って本作は、そこで挿入された信仰の世界の連射が目障りであると印象付けられたとしても、そのような強い信仰を背景とする風土で培われた思春期自我の揺動と氾濫を、父子の葛藤の中で累加されたディストレスと、そこを突き抜けんとする内的行程を骨子とする物語として受容すべきなのだ。

一対三という、一家族内の権力関係の構造内部にあって、この時代のこの土地の、極めて箱庭的な「小宇宙」の閉鎖系で生きる者たちの、往々にして惹起する葛藤と炸裂の物語は、46億年の歴史を繋ぐ地球時間の途方もない長さの中で、生命の連鎖の奇 跡的な巡り合わせによって形成された、名もない家族のほんの短い時間のうちに凝縮される煩悶が、特定的に拾い上げていくのである。

宇宙の生成と地球の誕生という物語の、途轍もないパワー漲(みなぎ)る大自然の変遷のうちに、そこで呼吸を繋いてきた無数の万物を吸収し、絶え間なき命の連鎖を無限に広げていく。

その命のリレーの中で、この名もない家族の物語は、しばしば「小宇宙」の輝きを放ちながら、誰にも知られることなく、一瞬のうちに消えていく。

人の世の儚さを丸ごと吸収する、境の見えない大自然の営みを支配する何ものも存在しないのである。

 だから、人間が都合のいいように作った「神」による万物の創造という物語は、人間の力で全くコントロールできない46億年もの時間の生命の連鎖の神秘によって、呆気なく相対化されるに至るのだ。

 本作の内実が、地球時間という巨視的視座から見れば、瞬きの一瞬にも届かない寸秒で拾われた、アメリカ南部の一家族内部の人間学的様態のうちに特化された微視的視座が、過去から未来へと永劫に継承される生命の連鎖のうちに融合するという、テレンス・マリック監督の世界観の投影であったとしても、断じて、「キリスト教のプロパガンダ」などという狭隘な把握によって、根拠なく唾棄されるべき作品なのではないのだ。

 恐らく本作は、テレンス・マリックの自伝的風景をベースにした、人間の心の奥深い迷妄を、その類稀(たぐいまれ)なる映像センスで捉え切った作品である。

ここに描かれていたのは、「神」への帰依の強要などではなく、そのような強い信仰を背景とする風土に生きる人間そのものなのだ。


 「神」を切実に必要としたり、或いは、その「沈黙」を嘆息したりすることで、様々に揺れ動く心の問題を軟着させようと足掻(あが)く人間の生態を、単に、映像美で勝負するフォトジェニックな作品と切れて、まさに「全身アート」の際立つ映像美のうちに写し取った一篇 ―― それが「ツリー・オブ・ライフ」だった。




2001年宇宙の旅(スタンリー・キューブリック)





究極の進化を成し遂げたと自負する人類が、宇宙空間の只中で繰り広げられる、「絶対的ツール」としてのHAL9000との「内部戦争」から生還したボーマン船長が、遂に辿り着いた「サムシンググレート」と表現する以外にない目眩(めくるめ)く異次元の世界。

このラストシークエンスにおいて、人智を超えた遥か彼方の宇宙の果てしなきスポットから、地球上で繰り広げられてきた人類の進化の様態を把握し、操作することで、もはや「神」と呼ぶ以外にない宇宙意思の存在の有りようのイメージが提示されていた。

「サムシンググレート」の「四次元」の世界で、時空が回転する「大驚異」のイメージ提示こそ、まさに大宇宙の神秘を再現する映像の氾濫だった。

映像で提示された光のシャワーの鮮烈なシーンの連射を、余分な観念系の構えを排除して、素直に受容したい思いを持つ私としては、キューブリック監督が本篇を通して描こうとしたのは、永久に進化を止められないホモサピエンスの性(さが)から言えば、「サムシンググレート」の「大驚異」と表現する以外にない、「未解明なるものの不思議・神秘」という、極めて言語化しにくいゾーンに限りなく最近接する蓋然性の高さを内包する宿命を、そこもまたハリウッド文法と完全に切れて、言語による説明描写を根柢的に破壊することで、どこまでも映像表現のみで再現しようという強い思いが読み取れるのである。

 その意味で、映像表現のみで勝負してきたキューブリック監督の、「全身アート」の「全身表現者」としての本篇を、私は高く評価する。

 なぜなら、本篇が「全身表現者」による「全身アート」の映像であるが故に、状況描写を不可避とする文学等の言語表現のフィールドが本質的に内包する様々な制約性の、ある種、狭隘な文学的規範の体系のうちに閉じ込められることから物語総体を解き放とうとする手法の選択は、ビジネス前線と無縁であり得ない映像表現者にとって、ダウンサイドリスク(損失リスク)を高める危うさを有するが、それでも映像表現のみで突き抜けた本篇の決定的価値は、既に公開後40数余年を経て、「映画の父」リュミエール兄弟(フランスの映画の発明者)による、「シネマトグラフ」(世界初の撮影・映写機)の発明(1895年)を嚆矢(こうし)とする世界映画史上において、紛う方なく検証されたのである

 それが、本篇に対する、私の基本的見解である。





刑事ジョン・ブック 目撃者(ピーター・ウィアー)



私は本作を、「文明」と「非文明」の相克の隙間に惹起した、男と女の情感の出し入れの物語であると解釈している
  
 本作の主人公の男を捕捉した「非文明」の中で発見された価値は、男が拠って立つ生活圏への違和感を束の間惹起させたが、統合された規範の継続力を生命線にす る「非文明」に呼吸を繋ぐ女の内側で、「非文明」それ自身が放つ臭気への違和感が起こらない限り、両者の物理的近接が、一時(いっとき)、心理的な最近接による情感を生み出したとしても、異質な価値観へのシフトを可能にする変化にまで突き抜けられなかった

 れは、「非文明」の中で発見された価値の中枢に呼吸を繋ぐ女に、いつしか恋慕の念を抱く心的行程を通して、字義通りに、自らが被弾した「文明」の臭気から 浄化されていくことで体感した快楽を、「非文明」の限定されたエリアで繋ぐという、その飛躍的行為の難しさを感受した男が、自らの本来のサイズに見合った 「物語」の中に、ほんの少し差別化し得た「自己像」、即ち、「非文明」の中で発見された価値によって相対化した、「文明」への客観的視座を抱懐する「自己像」を立ち上げていく映像である
  
 本作は、そんな異質な価値観へのシフトを可能にするときの条件が、単に外在的であるというよりも、遥かに内在的な性格を有する変容を不可避とする現実のバリアの様態を描き出す根源的な問題提示を、サスペンスの筆致で映像化した稀有な傑作だった。

 そして、男の変容を、限りなく精緻な心理描写で描き切った本作の完成度の高さは、その男を演じたハリソン・フォードの見事な表現力の高さの後押しによって、殆ど奇跡的傑作と言っていい稀有な作品に仕上がっていた。 

  紛れもなく、オーストラリア出身のピーター・ウィアー監督の最高傑作であると同時に、「スター・ウォーズ」シリーズでヒーローを演じた暑苦しい演技力とは切れて、ハリソン・フォードの最高傑作であると、私は評価している。

 惜しむらくは、これだけの名画が観られる機会が少ない現状であるが、映画史の中に埋没することがないことだけは確信して止まないのである。




鶴八鶴次郎(成瀬巳喜男)




完璧な映画の完璧な括りに圧倒された成瀬巳喜男の、本領発揮の名画。

「新内語り」の文化の伝統を守る、一組の男と女がいた。

鶴八鶴次郎である。

若くして「名人会」の高座に出演する二人だったが、お互いに男女の感情を意識しながらも、芸に対する深い思いの故に、それぞれの芸に対する把握の内実が微妙な差異を見せていて、事あるごとに衝突してしまうのである。

「あれはやっぱり、先代のようにやらなきゃいけないね」
「そんなことはありませんよ。あれでいいんですよ」
「どんな芸だって太夫が亭主で、三味線弾きが女房って昔から決まっているんだぜ。女房が亭主の言うことを聞くのは当たりめえでぇ。そいつをいちいち楯を突いていられちゃ、一緒に高座がなりたたねぇや」

男は先代の芸を継承する自負心によって、女の芸の独自性と創造性を支配しようとしたのである。

男は最後まで、覚悟を括った女の精神世界を超えられなかった。

それでも、男の本来的な独占支配感情は死んでいなかった。

 物語の最終局面で放った、なお愛しい女に対する男の大芝居は、どこまでも喰えない男にとって、女の幸福を願う純粋な感情表現であったに違いない。

 しかし、そこでの「自己犠牲的な精神」の発露もまた、そのような芝居を打つことによって、女の未来の時間を自分が管理掌握しようとする感情の表れであると見ることができるのだ。

なぜなら女は、心優しく穏健で、抱擁力を持つ夫と離縁してまで、自分の芸の創造的な継続の意志を、男に対して強靭な言葉を結んでい たのである。

自己基準を押し付けるな!

 本作を、悲哀を極めた感のある男の側からでなく、その男によって翻弄され続けた女の側から見ていくと、恐らく、その感情を集約するのは、このような言葉による噴出であるに違いない。

 そういう映画を成瀬が作ると、これほどの名画になるという典型的な作品の一つが「鶴八鶴次郎」である。


 【本作は、映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その3)と重複しています】





 千利休 本覚坊遺文(熊井 啓)


見事なまでに虚構の原作を、見事なまでに虚構の映像によって、季節感に富む柔和な色彩を借景にしてフィルムに刻み付けた、見事なまでに一級の人間ドラマである。

「逆転の小宇宙―― その名は『利休茶室』なり」

 これが、本稿の副題である。

利休の茶室に何百回も入った秀吉は、その特定の狭隘な空間の中で、自らに被した権力的衣裳が悉(ことごと)く剥がされていく。

権力的衣裳が剥がされた男は、茶道という厳しくストイックな芸術の、その濃密なエッセンスに全く届き得ない、一つの凡俗なる身体をそこに晒して、なお内側で膨らんでいる驕慢(きょうまん)な自我を、その狭隘 な空間の内で苦々しく踊らせる外はなかった。
 
 しかも、茶道という芸術の名において、その茶道の師匠である利休によって茶室の空気が支配されているのだ。

まさにその小宇宙のうちに、権力関係の逆転が生 じたのである。

 つまり、侘数寄(わびすき)という境地にまで達した、茶道という芸術の厳しさを遂に最後まで理解し得ず、それを形式的にしかなぞることが叶わなかった政治的権力者の世俗性の極まりが、そこにあったということだ。

 そして、その世俗性と全く無縁な精神世界を貫徹した男の宇宙が、厳然とそこに対峙していたのである。

政治的権力者はそこに這い入ることができず、凡俗な男の醜悪さがそこで晒され、置き去りにされることで、その男にはもはや、その驕慢な自我が唯一、縋り付く、「絶対的権力性」に拠って立つことしかなくなっ たということだろう。

 更に、その男の「絶対的権力性」をも相対化させるに足る、芸術の見えない力を目の当たりにして、凡俗なる男は。まさにその「絶対的権力性」を表現すること によってのみ、自己を正当化できなくなってしまったのである。

政治的権力者の惨めさこそが、そこに映し出されてしまったのだ。

そんな本作は、あくまでも作り手たちの理念系の産物であり、英雄的な男たちの、英雄的な物語であるに過ぎない。

 英雄譚を好まない私の映像観の中で、それでも、この映像を支持したいのは、全篇を貫く緊張感溢れる厳粛な空気感のうちに、骨太だが、しかし分りやすいメッ セージがそれほど矛盾なく表出されていたからでもある。

季節を表現する映像と、その季節が一体を成し、草庵で呼吸を繋ぐ本覚坊の内面世界の描写が上手に絡 み合っていて、蓋(けだ)し印象的だった。
 
 要するにこれは、その固有なる人生の軌跡に理念系を刻んで止まない男たちの、徹底した理念系のマニフェストであり、その眩いまでの身体表現の物語であったということである。

三船も錦之助も、「如何にも」的な、貫禄充分の演技で固まっている中で、本覚坊を演じた奥田英二のナビゲーターぶりには、その役割を超えて、観る者の心の琴線に触れる繊細な表現力が際立っていて、その一点のみで、或いは、私の本作への評価が定まったとも言えようか。



人生は、時々晴れ(マイク・リー)


マイク・リー監督は、私が最も尊敬している映像作家の一人である。

 その中で、「人生は、時々晴れ」は忘れられない作品の一つ。

それは、空洞化された共同体のその復元の可能性についての映画であった。

 人の心が最も安らぐミニ共同体 ―― 今やそれは、私たちが「家族」と呼ぶものが占有するはずの強力な価値空間だった。

しかし、そこに亀裂が生じ、いつの日か、そ の復元の困難さを晒すほどに空洞化されてしまったとき、そこに拠って立っていたはずの安寧を、人々は一体、どこで手に入れたらいいのであろうか。

 本作は、そのような空洞化された家族の時間の復元の可能性について、その復元のコアとなるべきものの大切さを描くことで検証した一篇であった。

タクシードライバーのフィルは、性格の異なる妻との間に疎外感を覚えていて、その感情がピークアウトに達したとき、そのまま家に帰らず、海辺に向かった。。

 「ああ、そうだ。変だな・・・愛はまるで、バケツに落ちる水の滴だ。独りの愛だと水は半分。満たされることはない。だから人間は孤独だ。人間は独りで生まれ、独りで死んでいく・・・仕方ないさ」

 これは、自分が乗せた婦人客から、「奥さんを愛してる?」と唐突に聞かれたときの答えだが、フィルは噛みしめるようにゆっくりと反応した。

 映像は、その直後、フィルの海辺での陰鬱極まる瞑想シーンを映し出す。

私の心に深く刻まれたこのシーンは、多くの作品の中でも、最も印象的な描写の一つだった。

 彼はあのとき、明らかに、〈死〉の観念に捕縛されていた。

迷って、悩み抜いて、それでも彼の心の中で、どうしても吐き出したい何かが揺れ動いていて、その揺れ動いたものが、一筋の未だ力ない未練となって、彼を生還させるものになったに違いない。

 そうでなければ、妻に対する、その夜の彼の激白は生まれなかったであろう。

 それは、息子の突然の疾病を契機にしているが、もしかしたら、仮にそれがなかったとしても、彼は妻への激白に向かったと思われる。

 少なくとも、私はそのように理解することで、フィルの心のラインに並ぶことができたのである。 

 常に高い水準の作品を送り出してくるマイク・リー監督の中でも、ナイーブな感性を持つが故に、自分の思いを率直に伝えられない男が、本来的なスローライフの時間を延長させていくことの危さを描き切った本作は、「予定調和の感動譚」を好まない私の中でも、殆ど例外な秀作だった。



秀子の車掌さん(成瀬巳喜男)
  

 本作は、一台のオンボロのボンネットバスを巡って惹起された、事業所の雇用主である社長と、その下で働く社員、具体的には、バスドライバーと車掌との、滑稽だが、しかしリアリティ溢れる関係のエピソードについての物語である。

自社のバスがあまりにオンボロなので、客足をライバル会社のバスに取られて、勤務の甲斐がない車掌のおこまが、偶然聞いたラジオ放送の名所案内にヒントを得て、それを運転手の園田に相談した。

 それを園田が自社の社長に掛け合って、その許可を得たというプロットに繋がるが、それ以降の物語の展開は、本作の中でも際立って滑稽で、ドラマの喜劇性を観る者に堪能させるものだった。

 園田とおこまの、自社の社長に対する直談判に、井川という小説家の強力な助っ人があって、さしもの、権力的な社長の態度が豹変するという展開は、殆ど一級のコメディのそれと言っていい。

 その結果、オンボロバスは改善され、おこまの怪我も癒えて、井川を見送った後の二人の勤務に向う雀躍感が映像に映し出されていく。

 しかし、物語の結末はそこにはなかった。


バス会社の社長の「改心」を経て、すっかりバス事業所の空気が変わったと思いきや、実はその社長が、かねてよりバスの売却と事業所の廃止を着々と計画していたという、コメディの括りとは思えない残酷なる落ちに流れ込んでいくのである。

 「喜劇」が「悲劇」反転するのだ。

 そして、その「悲劇の悲劇性」を未だ経験することなく、それは「喜劇」の延長上を駆け抜けた。バス会社の二人の従業員の底抜けの明るさを、観る者だけが知らされて括られる、戦前版「労働者残酷物語」なのである。


いつも思うのだが、成瀬は日本人が好んで止まないかのような努力信仰(?)や能動思考、更には、「思いを強くすれば報われる」というような、ある種の精神主義的なメンタリティを確信的に嫌っているような所がある。

 とりわけ、根拠のない無謀な猪突猛進のスピリットや、表面的に好印象を持たせるだけの向上心で、困難な事態を突破しようとする人の心の流れ方について、極めてシニカルなスタンスを確保しているように思えるのである。

人生はいくら努力しても報われないことがあるし、どれほど能力が秀でていても、それが好結果に繋がるとは限らないし、ましてや、現実的な根拠なくしてひたむきな思いを束ねても、それが遭遇する必然的な状況の壁に弾き返されることは勿論のこと、仮にそうでなくても、90パーセント成功裡に進んだ事態の展開 が、全く予期せぬ偶発的な事象とのマッチングによって、それが脆くも崩れ去っていくという現実こそが、まさに私たちの人生の真実の姿である。

 そんな風に成瀬は、いつもあるがままの人間と人生を把握し、それを淡々と、そしてしばしば残酷なまでに映像に刻んでいくのだ。


一級の名画である本作もまた、その例外ではなったということだ。




銀座化粧(成瀬巳喜男)



これは、戦後間もない頃の銀座のバーに勤める、雪子という名の、一人のホステスの物語。

  映像のテーマは、雪子の中に内在する「女」と「母」という二つの意識様態が微妙に交錯し、揺動しつつも、後者の牽引力が前者のエロス的世界を制御する感情の流れ方を精緻にフォローしたものだが、そこに、成瀬特有のユーモアと哀感を込めて見事に描き切った映像表現の構築に成功したところが、本作を秀作に足るものとして評価の定まった所以であるだろう。


  この映画が見事な出来栄えであると感心するのは、幼い息子を持つ一人のホステスが、営業前線で小出しにセールスする「女」の感情ラインと明らかに切れて、「女」である彼女の固有熱量の淡い対象となる朴訥な青年石川と邂逅し、束の間、ロマンチックな幻想を追い駆ける「少女性」をも随伴させつつ、夢心地の世界に遊んでいる幻想我が、自分よりも遥かに若い美人ホステス京子を物語のうちに媒介させるや、青年の心がシフトしていく現実を目の当たりにしたとき、そこに自分でも抑制困難な嫉妬心が噴き上がってくる感情ラインが、件の美人ホステスの誠実な告白によって、柔和な軟着点に落ち着いていくまでの心理描写を精緻に描き切った ところにある。

  何よりも本作の成功は、一人の女性が内側に抱えた「女」であることの意識様態を、嫉妬心の激しい噴き上げによって過剰なまでに自己確認し、その嫉妬心の感情ラインが自分のイメージする、あってはならない袈裟切りに遭うという最悪の展開を免れたことで、一人の女性の中に棲む「女」という名の商品価値が、決定的に破壊されるダメージを回避できたことによって、拠って立つ自我の基盤の一画がギリギリに守られ、特段に突沸する事態の出来がなくても、日々の生活風景 の減り張りを包含させた日常を繋ぐに足る、最低限の安寧を手に入れるまでのシークエンスの中で、微妙に揺動する心の振幅を記録した心理描写が冴え渡ってい たことに尽きると言える。

  恋は嫉妬心の自覚によって顕著に身体化されるが、それは、同時に恋の認知を強化し、より排他的な感情をも身体化させてしまう、ある種の厄介な毒素を内包するだろう。

  映像の中で、雪子が京子に抱いた嫉妬感情のうねりは、酷似した経験をする人間の多くのケースのごく普通の範疇にあって、束の間、無秩序な様相を呈して延焼していくが、その心理の中枢には、紛れもなく、自分の「女」としても商品価値への決定的なダメージを稀釈化する防衛意識が横臥(おうが)しているに違いな い。

  ダメージが少ない生存戦略の駆使 ―― この潜在化された意識が雪子を駆動させ、尖らせ、関係を支配させたのだ。

 「でも、泊めていただけで、何もありゃしません。石川さんって、そんな方じゃありません」

  若く、人生経験の乏しい本人には無自覚であるが故に、この京子の決定的な言葉が、雪子の「女」をギリギリに守り、その商品価値の破壊的な崩れを防いだのである。

  自分は京子よりも年増であり、子持ちであり、それ故、「結婚」、或いは、「男」との関係に関わる否定し難い「前科」もある。

  更に、自分より京子の美貌の方が勝っていると認知する素朴な評価もあっただろう。

  だから、若い者は若い者同士で恋を存分に語り合い、その結果、結ばれていけばいいのだ。


 そう思うことで、雪子は自分の「女」の、なお値崩れしないと信じる商品価値を守ったのである。

 驚くほど、精緻に描かれた、知られざる一級の名画だった。




あ、春(相米慎二)
  



相米慎二監督の「あ、春」は、味わい深い映画である。


 韮崎紘(ひろし)は一流大学を出た後、金融機関に入社し、アッパーミドルとも思しき家の世間知らずの娘と結婚して、一番可愛い盛りの男児を儲け、「幸福家族」のイメージを延長させていた。


ところが、幼児期に死別したはずの父親が出現することで、一気に「幸福家族」の「日常性のサイクル」に亀裂が入る。

それでなくても、倒産間近の会社に勤務する紘は、それを妻に話せない悩みを抱えていて、今や、拠って立つ自らの基盤が崩されそうな「非日常」の揺動感の中でもがいていた。

 無頼のような生活を繋いできた父の入院によって、遂に、意を決して、妻に話す夫。

 「謝らなきゃならないんだ」
 「何?」
 「今日、更生法の申請が却下されたんだ」

その意味が呑み込めず、夫のフォローを待つばかりの妻。

 「会社、潰れたんだよ」

 「間」ができた。

 「どうして結果だけ言うの?」
 「こんなに早いとは思わなかったんだ」

 再び、「間」ができる。

 「いつも私に、何も話してくれなかったじゃない。ずっと、そうだった。お父さんのことも、いつもほっぽらかしにして、自分一人で苦労しているみたいな、そういう顔・・・」

 「そうかも知れないな・・・仕事面白かったのかなぁ。退職金も出ないんだ。どうしていいんだか分んないだよ」

 それだけだった。

 それは、韮崎夫婦を直撃する、彼ら自身の「非日常」の最初の試練だった。

 然るに、一気に抱え込んだストレスに十全に対応できない一つの家族が、呆気ない程の父の死を視認することで、かつてそうであったような「幸福家族」の物理的共存を 復元させるに至るが、しかし今、会社倒産と「身内」の死によって極点に達した「非日常」の揺動感の中で、それまでの「幸福家族」の幻想を突き抜けるほどの 再構築が内側から要請されたのである。

 その辺りの「家族再生譚」を、ホームコメディ基調で描き切った本作の訴求力は群を抜いていて、一級の名画の域に達していた。

 さすが、相米慎二の腕力は、滋味豊かなヒューマンドラマに結実していて、観られる機会の少ない現実に驚かされるほどである。

 


ザ・コミットメンツ(アラン・パーカー)


 直球勝負の威力抜群の、個性的な映像を世に放つアラン・パーカー監督の作品の中で、「ザ・コミットメンツ」は、私が最も気に入っている映画である。

「ミッドナイト・エクスプレス」(1978年製作)や「ミシシッピー・バーニング」(1988年製作)に代表される、彼の「本格的社会派」の作品群と切れ、「大カタルシス」の映像挿入を不要とする「青春映画」という限定的なジャンルにおいて、「人間関係の尖りや不調和」などが自己運動する、「ザ・コミットメンツ」という名のソウル・バンドの曲折的な航跡を、見事に写し取った一級の「爽快篇」 ―― それが本作だった。

「ダブリンに本物のソウルバンドを作りたい」

本作の主人公であるジミー(画像の後方の青年)のこの夢を実現させるべく、彼だけは必死になって動いていく。

その結果、形成されたソウル・バンドの名は、「ザ・コミットメンツ」。

この立ち上げの先頭に立って、獅子奮迅の活躍を示すジミーが、仲間に放った言葉が鮮烈だ。

 「アイルランド人は欧州の黒人。中でもダブリン子は、黒人の中の黒人だ。だから、胸を張って言え。俺は黒人だって」

 差別の前線にあるダブリン子には、同様に差別の前線にあり、1940年代にアメリカの黒人たちが立ち上げた、「リズム・アンド・ブルース」をベースにした「ソウルミュージック」を、声高に歌っていく価値があると言っているのだ。

「ソウルは労働者のリズムだ。ソウルは人に訴える。シンプルだが、特別なインパクトがある。ウソっぱちではなく。真実の声だからだ。人間の裸の心が発する声だ。楽しいだけじゃない。がっちりとタマを掴んで、高みへ引き上げてくれる」

 これも、ジミーの言葉。

まさに、この叫びこそ、彼らのマニフェストになっていく。

 と言うより、マニフェストになっていくはずだった。

 しかし、レコード会社との契約の可能性が成立する辺りまで、その実力と人気が沸騰しつつあったにも拘らず、肝心の12人のバンド・メイトの心はエゴ丸出しで、その果ての仲間割れによって、結局、自壊するようにして頓挫するに至る。

殆どプロ級の歌唱力を持つヴォーカルの傲慢な態度に、仲間の反感が集中し、トラブル続きの果てに、かつての用心棒の2代目ドラマーに半殺しの目に遭わされる始末。

 「くたばれ、うんざりだ!」

マネージャーのジミーは、遂にギプアップ。

 そして、「爽快篇」のラストシーン。

ファーストシーンのジミーの語りが自問自答であった事実を判然とさせつつ、円環的な自己完結を遂げていく印象的なラストシーンだが、映像の中で、そこだけは些か形而上学的な括りを挿入しているのだ。

 鏡に向かって自問自答しながら、回想するジミーがそこにいた。

自らの意志で立ち上げたソウル・バンドの一過的な成功の中で、一時(いっとき)、得も言われぬ快感を覚えたが、「魂の歌」を叫ぶ自己運動が、いつしか世俗の熱狂に吸収されることで自己統制不能と化し、最後は「予定不調和」の曲折的な航跡をなぞっていった。

 詰まる所、ジミーは、「ザ・コミットメンツ」のマネージャーというハードワークの経験を通して、「ザ・コミットメンツ」を作ることが如何に困難であるかということを学習したのである。

 しかし、思いも寄らぬその経験を、「一番学んだこと」と言い切るジミーには、何より貴重な人生経験だったのである。

 その人生経験が、彼の「明日」に繋がるからだ。

数多ある「青春映画」でも、特筆すべき名画だった。

 

アドルフの画集 (メノ・メイエス)



「憎悪の共同体」の中枢の近くに、一人の風采の上がらない小男が、いつしか立っていた。アドルフである。

遂にモダンアートの世界に入り込めなかったその男が選択したのは、政治という名の新鮮なアートの世界だった。

 無秩序で、脱規範的で、徹底して個人主義的なモダンアートの世界に馴染めない男にとって、その選択は内的必然性の帰結でもあったのだ。政治という名の世界にこそ、彼が夢見た伝統的で、様々な規範を尊重する新秩序を創り上げようとしたのである。

その共同体を動かすパワーを、一人の貧乏画家が占有したとき、男はもう、「時代に洗脳された男」ではなく、「時代を洗脳する男」に変貌を遂げたのである。

 しかし映像は、そんな男の複雑な心情世界を繊細に描き出す。

 「政治をアートに変える」と信じた男の内側には、なお男が本来的に志向したアートの世界への未練が張り付いていたのだ。男はまだ蛹ではあったが、すぐにでも飛翔できる成虫にまで変容できていなかったのである。

 ナチスの集会での絶叫によって、聴衆が過剰に反応する状況下で手に入れた、存分なほどのナルシズムの快楽によって一切を昇華するには、男の心情世界は余分なものを抱え込み過ぎていたということだ。

 男は、芸術による自我アイデンティティの安定的確保への道を断念し切れないのである。断念し切れないのは、そこに侵入する余地が殆ど限定的な男の残り火のようなものであった。それでも男は、それをどこかで求めて止まないのだ。

 「憎悪の共同体」の中枢に近づきつつあっても、男は残り火を消し切れないのである。

 その意味で、この映像を括って言えば、「『憎悪の共同体』―― その中枢に今まさに、身を埋めようとする男の残り火」という風に捉えることも可能である。

 映像は、そんな男の心の振幅を哀切なまでに描き出すことに成功した。

 この男の近未来の姿を知った上で映像と付き合う観客の哀感を見透かしたかのように、映像の作り手は、そこに「独裁者は本当に狂人だったのか」という問題提起を加えることを止めないのである。



自分を信じ、政治へのアプローチを牽制して止まない、一人のユダヤ人画商との交流を通して垣間見せる、アドルフという名の男の、その余りに人間的な振る舞いを挑発的に見せた、この映像の作り手の覚悟は相当なものだった。

 だから観る者は、素直に感銘を深くしてしまうのだ。





ほえる犬は噛まない (ポン・ジュノ)




「近代」の利便性が凝縮された、高層団地という限定的スポットの中で出来した、「連続小犬失踪事件」。

 「近代」の代名詞である高層団地の中において、ルール違反のペット飼いに象徴されるのは、「近代」という快楽装置の記号であり、そこに中流階層のステータスがべったりと張り付いている。

 同時に、「近代」の代名詞である高層団地の限定的スポットでは、中流階層のステータスとは無縁に、そこで飼われるペット犬を食う浮浪者が夜な夜な蝟集(いしゅう)し、さながら、高層団地の「異界」的存在性が炙り出すものは、ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の様態であ る。

1988年のソウルオリンピック開催と、それに次ぐ、2002年のFIFAワールドカップの際して、既に牛肉は食っても鯨肉は認知しないという自己基準 を、上から目線で他国に押し付ける欧米諸国の批判に直面し、韓国政府は犬食に対する取締りを実施したが、「ポシンタン」という犬食料理の文化が根強い庶民 階級では、歴史的継続力を繋ぐ「犬食文化」は壊滅しなかったのである。

 それ故、ペット犬飼いの「近代性」と、ペット犬喰いの「前近代性」の包括的共存の裸形の様態が、まさに「これが現在の韓国の姿である」というアイロニカルなメッセージを込めて、毒気含みの本作のうちに集中的に表現されるに至ったのである。

 学長への賄賂なしに大学教授のポストを得られないという、丸ごと「前近代」の現実の中で苛まれ、大学教授のステータスを手に入れることに苦労した挙句、厖 大なディストレス状態を延長させてしまった本作の主人公は、中流階層のステータスである、ペット犬飼いの「近代性」を憎悪する屈折した感情傾向を、「ペッ ト犬殺し」という尋常ではないアンチモラルな行動にエスカレートさせていったのだ。

 ところが、身重の姉さん女房との究極のバトルの結果、中流階層のステータスである、ペット飼いの「近代性」を憎悪する男は、あろうことか、自らの手でペットを飼育するという矛盾の渦中に放り込まれてしまうのである。

 以上が、この男を通して描かれる本作は、「近代」と「前近代」とのコンフリフトの観念的文脈であると把握する見方もまた可能であるだろう。

長編デビュー作として、かくも毒気含みの作品を選択したポン・ジュノ監督は、そう言っているようでもあった。
 


フル・モンティ(ピーター・カッタネオ)




 「一攫千金には、この方法しかない」

 そう考えた男が仲間を集めて、紆余曲折しながらも、最後は、「一回限りの完全ストリップ」を自己完結するまでの話である。

 考え抜かれた秀逸なシナリオによって、ユーモアとペーソス溢れる一級のヒューマンコメディが、20世紀も終わりに近い英国の映画界に誕生したのは、或いは、映画史にとって一つの画期かも知れないと思えるほどだ。

少なくとも本作は、私の中では「面白いだけの映画」ではなかったということだ。

 英国映画らしく、一切の奇麗事の言辞を吐かない見事な本作から読み取る、「人生論的メッセージ」の文脈を、私は以下のように簡潔に把握したいと思っている。

その1  生きるためには何でもやれ。男性ストリップ、大いに結構。

 その2  やるからには、最高のパフォーマンスを見せろ、或いは、自分の持てる力を全て出し切れ。

 その3  最高のパフォーマンスに向かうプロセスでの様々な右顧左眄、紆余曲折を経て、そこで自己完結した「自分の仕事」を存分に誇れ。

 その4  「自分の仕事」を存分に誇ったスピリットを捨てることなく、〈生〉を継続させるために、必死の覚悟で「自分の仕事」を探せ。

 その5  そのためには、何よりも、まず動け。動いて、動いて、動き切って、それでも駄目なら、死ねばいい。決して失ってはならないものを失う覚悟を持って、死ねばいいのだ。そこまでやれ。

 詰まる所、生活基盤が脆弱な状況下ながら、どれほど苦境に陥ったとしても、それを何もかも、安直に、「他者や社会の責任」に還元させることなく、自力で生きていくことを諦めるな、その思いを捨てるな。

 少なくとも私にとって、そういう映画だったのだ。




父の祈りを(ジム・シェリダン)




カトリック系過激組織アイルランド共和軍(IRA)のテロの冤罪事件をベースに描いたこの映画は、「父と子の葛藤と和解」、そして冤罪でありながらも、看守に対しても律儀に対応する、その一貫して変らぬ父の誠実な生き方と、その死を些か眩く照射することで、「自堕落な息子の真の再生」を主題に据えた稀有な傑作である。

「俺は死ぬ。俺は恐い。他人の中で死んでいくのが恐い。母さんを残して死んでいくのが恐い」

 冤罪に問われた父と息子が、刑務所で物理的に共存するが、獄中での気の遠くなるような歳月の中で、息子は、静かなる闘いに魂を投じる、この父の言葉に接し、父の生き方を初めて正視する。

死期が迫っている現実を感受する父の言葉を、息子は全人格的に受容するのだ。

 「父さんは死なないよ。母さんの面倒は見る」

 「父さんは死なないよ」という言葉を、「母さんの面倒は見る」という言葉が支え切っているのだ。

 そして、父の死。

 「我々、父子は無実なのに、父は獄死した。俺は非暴力で権力に抗議する」

 父を喪った主人公であるジェリーが、刑務所内の官吏に放った言葉である。

 この言葉のうちに、ジム・シェリダン監督の思いが込められているのは言うまでもない。

 実話に基づく事件から15年が経過し、ジェリーは遂に再審請求を勝ち取り、無罪放免になったのは、有名な話である。

 「看守長放火事件(焼殺未遂)によるIRAとの訣別」「父の獄死と弁護士のサポートによる、確信犯的な行為」という時系列のゾーンの重要性は、以上の言及によって明瞭だった。

「ありがとう」

 しっかり腕を組んで、ジェリーはそう言ったのだ。

ここまで成長した男の内面を、映像はワンカットで提示して見せたのである。

 ダニエル・デイ=ルイスと、父役のピート・ポスルスウェイトの熱演が光る良い映画である。



カイロの紫のバラ(ウディ・アレン)




セシリアの現実逃避の映画鑑賞の凄みは、「夢を見る能力」の凄みである。

彼女の「夢を見る能力」の凄みは、「夢見効果」と化して、明日もまた、辛い現実を引き受けていく相応の残酷を、相当程度、希釈化させ、浄化させてくれる能力の凄みである。

たとえ、それが現実逃避であったにしても、「夢見効果」を充分に自家薬籠中の物とする、セシリア本来の「夢を見る能力」が、辛い現実を忘れさせてくれる限り、「夢見効果」に浸る彼女の「日常性」に決定的破綻が訪れることがないだろう。

 しかし皮肉にも、彼女の負った現実の厳しさが、彼女の「夢見効果」を、いよいよ膨らませていった挙句、遂には、「第四の壁」を突き抜けて、スクリーンを介在する「虚構空間」を、自分の世界に引き寄せてしまったのである。

セシリアの「夢見」の世界の柔和なる舞いが、未知のゾーンへの稜線伸ばしを張り出していって、一つのピークアウトに達したとき、彼女の「日常性」は「非日常」の彩色濃度を深めていった。

そこに仮構された「非日常」の風景が、更に、膨れ上がった心理的推進力になって、セシリアの「夢を見る能力」は、選択的に「虚構空間」の世界に侵入していくに至るのだ

セシリアの中の「夢を見る能力」のパワーの凄みが招来した本物のハリウッドスター、ギルの、「虚構と現実を橋渡しする夢の身体性」に引き寄せられることで、彼女は「虚構空間」の世界と別離するに至る。

 「あなたは夢の世界の人なの。夢には惹かれても、現実を選ぶしかないの。お陰で楽しかったわ。一生、忘れないわ」

これが、「夢見」の世界で出会ったトムに放った、セシリアの言葉。

しかし、「虚構空間」の世界から勝手に飛び出して、世俗の「現実」に全く適応できないトムの問題が解決したことで、時間にほんの少しの「間」ができたギルに、本来のスターの余裕を復元させてしまった。

結局、辛い現実の世界に押し戻されたセシリアは、傷心の気分を乗せて、映画館に足を運ぶ。

それ以外の選択肢を持ち得ていないのだ。

傷心のセシリアの、視界一杯のうちに捕捉されたもの。

それは、公開されたばかりの「トップ・ハット」(1935年製作)で、軽快なリズムを刻んでダンスを舞う、フレッド・アステアとジンジャー・ロジャース主演の、アメリカ映画史に燦然(さんぜん)と輝くラブコメディのミュージカル。

セシリア本来の「夢を見る能力」にスイッチが入って、俄かに、その柔和な眼光は爛々(らんらん)と輝いていく。

「虚構」と「現実」を峻別した上でなお、「夢を見る能力」を繋いでいく彼女にとって、そのイメージ提示は、凛として、辛い現実を引き受けざるを得ない者の、覚 悟を表現する何かにまで届いていたとは言えないだろうが、少なくとも、「夢を見る能力」が招来した彼女のお伽噺は、それを必要とすることで、辛い現実を引 き受けていくラインをトレースするものだったに違いない。

お伽噺の媚薬を一時(いっとき)嗅がせてくれても、それが恒久に続くほど、人生は甘くないというメッセージを隠し込んだ、ウッディ・アレン監督の一代の名画である。




おかあさん(成瀬巳喜男)




貧しいが、この平和な六人家族の日常性に走った最初の裂け目、それは長男の病死だった。

 一時(いっとき)療養所に入れられていた長男が、脱走の果てに求めたものは母のぬくもり。慈母観音の求心力は、いつの時代でも、この国では絶対的なのだ。

 勿論、成瀬は、長男の死という定番的な泣かせ所を描かない。家族の死が日常的であった時代において、その残酷な裂け目を綿々と記録したら不幸の安売りになってしまって、成瀬的映像の本質が霞んでしまうのだ。

 これは、次に訪れた父の死の描写においても同様である。

 人が生まれたら、必ずいつか死ぬ。

 それは、生命あるものの自然の摂理である。成瀬は死を特別なものと考えない映画作家なのである。

 ともあれ、一家にとって二人の大黒柱を喪った母には、心を病む余裕すら与えられない。

 夫の弟子で、腕の立つ職人の手を借りて再開したクリーニング店を切り盛りするが、家計の遣り繰りはあまりに困難すぎた。

 そんなとき、一家の困窮を救おうと伯父夫婦が次女の養子縁組を申し入れてきて、苦慮の末、その話を受託する母。

 次女が一家を去る前日、母は長女、甥を伴って遊園地に出かけた。

 遊園地で思い切りはしゃぐ子供たちの傍らに、恐らく、最初で最後の宴を見守る母がいる。

 チャーハンをガツガツ食べる子供たちの中心に、食事に箸をつけられない母がいる。

 日常性が三度(みたび)裂けていく現実を前に、母だけが揺らいでいた。

 それでも母は、一家の日常性をなお繋いでいかねばならない。

 母の復元力を中枢とする家族力の物語は、特段に珍しい風景ではなかったのだ。

 成瀬はそんな当然過ぎる日常性を淡々とフィルムに刻んでいく。

これは、「喪って、喪って、なお失いゆく時代の家族力」というテーマの内に、「残酷の中のぬくもり」という日常性のリアリズムを張り付けた、一級の「ホームドラマ」であった。




  ケス(ケン・ローチ)


万引きを常習とする少年ビリーが、恐らく生まれて初めてであろう、決して喪いたくない大切なものと出会った。

修道院の敷地内で、崖の高みに鷹の巣があることを目撃し、ある日、その崖を上って、巣の中の雛を盗み出したのである。

ビリーは、その鷹の雛に「ケス」とネーミングし、それを育てていくことに情熱を傾けていく。

「2週間、1日回エサをやった。手袋をはめた手に肉を挟み、鷹に差し出すと、首を曲げ、くちばしで引っ張って食べる・・・・屋内でヒモに慣らしたら、外に 出して訓練してみる。屋内では手にすぐ飛んで来ても、新しい世界に驚き、警戒して、肉にも手にも反応しないかも知れない・・・・次に、長い皮ヒモを使い、 長距離の訓練に移る。訓練するうちに逃げようとしなくなる」

少年のモノローグで語られる描写を通して、少年と「ケス」の奇妙だが、緊張感溢れる関係が、そこだけは特別な世界だと言わんばかりの瑞々しい筆致で語りかけてきて、観る者の心を捉えて止まない映像を予感させていた。



少年が出会ったそのものは、少年によってマニュアル通りに調教されることによって、そこに少年が予想もしなかった精神的付加価値を見出したということ。その付加価値とは、少年の存在すら無視して空を勇壮に舞う「尊厳なるもの」であった。



「尊厳なるもの」との出会いによって、少年は自分自身と出会い、それを絶対守るべきものとして、思春期の危うい時間の大半をそこに投入したのである。



しかし、自分が最も大切にしていたものを喪ったとき、少年ビリーは、それまで内側に抱えていた甘えの感情や、その場しのぎの言い逃れの対応や、累積された鬱憤を晴 らすかのような軽微な非行とか言った、これまでの行動ラインと一線を画すかのような自己表出を果たしたのである。



それも自分の周囲にいる大人の中で、自分が最も恐れる相手である兄に対して真っ向勝負したのである。

 ビリーの中で何かが鮮烈に弾け、何かが衝撃的に生まれた瞬間だった。

 それは同時に、少年の中で液状的だったものが、未だ形状が定まらない固形物に辿り着いた瞬間でもあった。

 少なくとも、少年は、このとき明瞭な意志を表示し、それを具象化したのである。意志が身体化されたときのエネルギーの移動が、そこに垣間見られたのだ。

 ケスの埋葬は、少年にとって、不透明な未来への一つの危うさを含んだ旅立ちであったと言えるだろう。それでも少年は、自らがケスとなって、この旅を捨ててはならないのだ。

 最後のケスの埋葬シーンには、作り手のそんな思いが仮託されていたのだろう。

 残酷なまでにリアルで、ザラザラとした映像が放つメッセージの重量感は、蓋(けだ)し圧倒的だった。




リラの門(ルネ・クレール)




好きな女のために、凶悪な逃亡犯を殺害したジュジュ(画像右)は、複雑な思いで帰途に就き、親友の「芸術家」にそれを打ち明ける。

 「芸術家」から酒を勧められても、それを飲もうとしないジュジュがそこにいた。

 それは、「お人好し」の彼がこの事件を通して変容したことを意味するのか。

 彼の中で何かが壊れ、何かが生まれていったのか。


少なくとも、彼の中で壊れた最も大事なものは、女への想いが永久に凍結されたことであるに違いない。

 しかし恐らく、彼にはそれでも良かったのであろう。

 最も大切な「ガールフレンド」を守り切ったと、本人だけは信じていたと思えるからである。

 では、事件によって生まれたものは、「ろくでなし」の人生が「勤勉な男」に化ける程の変化であったのか。

 到底そうは思えないが、しかし彼が経験した由々しき現実の中で、「人生は甘くない」という、よりリアルな認識くらいは学習できたであろう。

そんな男にとって、「俺は何で生きてると思う?首を吊って死にたいからだ」という口癖の内実が、今後も幾分かのリアリティを持つに至るか不分明だが、甘くない人生の中で自分を見詰める経験的学習が、「首を吊って死ぬ」ことへのプロテクトの価値を内化させたとは言えないだろうか。

そして、男が顔を埋めるようにして、部屋の窓に凭(もた)れるラストカットの構図の見事さ。

 映像の余情を決定付ける構図の切り取りは、それまで見せたことのない無言の表情が語るものの内実を、実に能弁に語って止まない程の括りとなってフェードアウトしていった。

 本作はトラジコメディのカテゴリーに近いと思われるが、心理描写の精緻な内実の成功によって、詩情溢れるルネ・クレールの晩年の傑作という評価は揺るぎないだろう。




マッチ工場の少女(アキ・カウリスマキ)




アキ・カウリスマキ監督作品の中で、唯一、愛着の深い映像。

夜のディスコに出かけても誰も相手にされない「マッチ工場の少女」にに張り付く、「地に繋がれた囚人」という「剥奪された日常性」のイメージが炸裂する、毒気満点の映画である。

それは、オープニングで執拗に描かれる、ベルト・コンベアーで運ばれてくる、マッチ工場の製造ラインの工程に象徴される、物質文明社会の歯車のような存在感の剝落感であった。

そんな「少女」が男に惚れ、完璧に袖にされる。

しかも「楽園」への脱出願望の夢を、束の間味わう快感を手に入れてしまったために、そこに自己投入した思いの一切が砕かれる衝撃を受けるのだ。

 「不幸の免疫力」を持つ「少女」は、自分を拒絶した男に手紙を書く。「少女」の中で、「楽園」への脱出願望は放棄されていないのだ。

 その手紙は、映像を通して、唯一「少女」が、自分の心情を切々と吐露したものである。

 自分の心情を吐露した、「少女」に対する男からの反応は、小切手付きの酷薄な一言。

 金銭によって縛られた「少女」は、金銭によって、一夜の関係を処理しようとする男を断じて許せなかった。

 男に対する「少女」の憎悪が、極点に達した瞬間だった。

 「少女」は男を殺し、その帰りに立ち寄ったスナックで、自分に言い寄る別の男に対しても殺鼠剤を注入した。

 それは、「少女」が、束の間愛した男の振舞いと同質の行為だったからである。

 「少女」は、「究極の失恋」を過剰学習してしまったのだ。

 更に、二人の男を殺した「少女」は、自分を「囚人生活」に陥れたルーツへの憎悪を掻き立てるに至る。

 「少女」は、「不幸の免疫力」を作り出した両親をこそ、この世から抹殺する以外になかった。そのことによって、自由を奪われた「少女」は、死刑制度のない国での、塀の中の生活に身を投げ入れることを選択したのである。

 塀の中の生活の方が、「少女」にとって、それまでの不幸の内実に比べれば、「搾取」がない分だけマシということだったのか。

「語り」を削り取った映像は、一切答えない。それでいいのだ。

「作家性」の顕著な、この映像の本質は、「社交辞令」に象徴される、人間同士の「語り」を削り取ってしまえば、そこに「愛」、「友情」、「平和」、「思いやり」等々といった幻想から、良かれ悪しかれ解放されるだろう。

 その結果、包括力と柔和感に乏しい、ぎすぎすした人間社会の裸形の冷厳な現実が露わになることで、私たちの社会の欺瞞性溢れる「文化システム」の様態を浮き彫りにさせたのである。

 そう思わざるを得ない程に、凄みのある映像だった。




レイジング・ブル(マーティン・スコセッシ)


 「俺は自分でやる」

 この言葉を信条にするほどに、人に頼るのを最も嫌う男。



本作の主人公であり、伝説的な実在のボクサーの名はジェイク・ラモッタ。

「ただ、一度こうと思うと強情で脇目も振らない。キリストが十字架から降りても、彼は知らん顔で自分の決めた道をまっしぐらだ」

弟のジョーイの言葉だ。

ダウンしない男は、相手を合法的に殴り、且つ、殴られることによってのみ、自己の存在証明を確保できかのようなのだ。

それが、技巧に頼ることを最も嫌う男の戦闘スタイルだったのだ。

 これまでの紆余曲折の人生を通して、自力で克服してきたことを誇りとする男の帰結点が、ブルファイターの世界だったのである。

そんな男の人生だからこそ、損得原理で動く技巧性よりも、難局を突き抜けていく腕力への幻想が常に勝ち過ぎてきた。

 しかし、男のその抜きん出た腕力は、男を輝かせる最高のステージであるリングにあって、試合を重ねる度に、「ブロンクスのレイジング・ブル(怒れる牡 牛)」の異名を轟かせることに成就したが、男が愛する妻、ビッキーとの生活の共存性の中では、技巧を駆使できない男の致命的な瑕疵だけが暴走してしまう のである。

あろうことか、ジェイク・ラモッタは、妻のビッキーへの監視をも依頼して、それを実行した弟のジョーイを疑った挙句、家族の団欒の中枢にいたその弟に襲いかかって、散々、殴る蹴るの傍若無人ぶり。

技巧に頼ることを最も嫌うブルファイターは、その日常性と地続きだったという訳だ。

見事というより他にない、マーティン・スコセッシ監督の天晴れな表現宇宙が、全篇に漲(みなぎ)る躍動感の中で踊っていた。



あにいもうと(成瀬巳喜男)




家族という永遠のテーマを通して、それを構成する者たちの重層的な関係の有りようを描いた映像である本作は、奇麗事を言わない成瀬映像らしく、この国の男と女の現実に肉薄していて、「甲斐性、意気地のない男たち」と「見過ぎ世過ぎを立てていく女たち」という、力動感溢れる筆致は、「いもうと」を演じた京マチ子の歯切れの良い啖呵によって、爽快感すら覚えたほどである。

自分を孕ませた学生に暴力を振う卑怯な兄に憤怒した、「いもうと」のもん(京マチ子)が、卓袱台(ちゃぶだい)を蹴飛ばしたことで、当然、大喧嘩となった。

「このキチガイアマ!」

 怒り狂った兄に殴られ、蹴られ、庭に放り投げられたもんは、「畜生!」と叫んで、部屋に入って来るや、兄に掴みかかっていった。

 しかし、そこは腕力で勝てない女の哀しさ。

 もんは逆に押し倒され、思い切り頬を叩かれた。

 「畜生!殺しやがれ!」

 座敷の中央で仰向けになったもんは、大の字になって叫ぶのだ。

 「お前みたいに、小便臭い女を引っ掛けている奴とさ、憚(はばか)りながら、もんは違う女なんだ。お前の御託通りに言えば、あたしは淫売同様の、飲んだく れの、嫁にも行けないあばずれ女だ。・・・だからって、一度許した男を、手出しのできない弱みに付け込んで半殺しにするような奴なんて、兄貴だって誰だっ て、黙って聞いちゃられないんだ。お前、それでも男か!こんな弱い者苛めをする兄貴だと思わなかった」

 当然、痛い所を衝かれた伊之吉の鉄拳が、啖呵を切る女の頬に飛んできた。あまりに本質を衝く、歯切れの良い啖呵を封印するためだ。

 ところが、殴られた後も、女の啖呵は止まらない。

 「ひょろすけ!女一匹が、てめえなどの拳骨で気持が変わると思うのは大間違いだ!泥臭い田舎に彷徨(うろつ)いているお前なんぞに、あたしが何をしていか分るもんか!」

 もっと見事な啖呵が、そこに捨てられた。

 母のりきと、妹のさんは号泣するばかり。

 「いい加減に、この家から出て行きやがれ!」

 妹を殴り尽くした男には、もうこの戦術しかなかった。

啖呵を切る女と、それを切られる男の構図は、職人世界の情感系言語が機能しない物語の真骨頂を彷彿させていたのである。

 「お前はまあ、大変な女におなりだね・・・後生だから、堅い暮らしをして女らしくなっておくれ」

 この母の言葉で、全てが終焉した。

 この劣化しつつあるように見える家族は、腕力で訴えることをしない母と次女の嗚咽が、なお有効な戦略である事実を検証して見せたのだ。




ロルナの祈り(ダルデンヌ兄弟)




アルバニア移民のロルナは、闇組織のブローカーの手引きで、国籍を取得するために、ヘビードランカーのクローディと偽装結婚をさせられるが、麻薬を断つ努力をする男と心理的近接を果たすことで、心が揺れ動き、関係を結ぶに至った。

しかし、男が麻薬を断つ努力をすることは、闇の組織が期待する男の死を先延ばしにすることになる。

組織のブローカーの魂胆を知るロルナの心中で、クローディの命を救いたいという思いが起こり、それが、自分が関わる犯罪の遂行に躊躇させてしまうのだ。

この映画の最大のポイントは、自分が関わる犯罪の内実を知りながら、本来、犯罪者の気質と無縁であると思わせる女性が、そこで出来した「共犯関係」をどこまで継続できるのかという一点に尽きる。

「嘘と真実の戯れの中で生きてきた」ロルナが、好むと好まざるとに拘らず、闇の組織によって「物理的に提供」されたヘビードランカーとの物理的近接を果たすことで、必死に求めてくる男との心理的距離が幾つかのステップを経て縮まっていく行程は、ロルナという女が、本来的に犯罪者の素質を持った人物として造形されていないことを意味する。

そんな彼女が、「究極的な援助」に振れていったあの夜の出来事は、闇の組織との「共犯性」を相対的に希釈化させる効果を包含しながらも、彼女は決定的なところで変容し切れなかった。

闇の組織が張り巡らせた暴力のバリアが、彼女の内発的変容の芽を地中深くに埋め込んでしまっていたからだ。

しかし、突如、変化が起こった。

悪阻を体感したのである。

 この経験が、ロルナが潰しにかかっていた過去の断片を蘇らせたのだ。

 ロルナの記憶に生々しく蘇ってきたのは、クローディの存在だった。

 クローディと「共存」し、「共有」し、「援助」に大きく振れたあの一夜だった。

 ここから、ロルナは変貌していく。

 懊悩する青春を救済する映像を、一貫して作り続けてきたダルデンヌ兄弟のヒューマニズムは、本作でも、今やそれ以外にない、ロルナの新たな再生の旅のイメージを残して閉じていく。

 作家性の強い驚くべきラストシークエンスは、言外の情趣を湛えていて感銘深かった。

知られざる名画である。



隠し剣 鬼の爪(山田洋次)




近年、目立つ、この作り手の説教臭さに辟易する思いがあった中で、人情深い青年武士の「スーパーマンもどき」と、自分の本音を隠し、好きな男の命令に殉じる、万事控えめな日本女性という、極めつけの「善」を際立たせた、典型的な勧善懲悪の映画ながら、二人の「純愛譚」のピュアな絡みをベースにしたためか、この作り手特有の説教臭さが、相当程度、希釈化されていていたことによって、観る者に感情移入を自然に導く人物造形のシンプリズムが功を奏し、ふんだんのユーモアで包み込んだ、ヒューマニズム基調の「娯楽時代劇」の逸品と言っていい作品に仕上がっていた。

 時代劇3部作の中で、その完成度の高さは、「たそがれ清兵衛」(2002年製作)に及ばなかったが、観る者の琴線に触れる「純愛譚」を演じた二人の俳優、永瀬正敏と松たか子の出色の表現力が誘導した小さな恋の物語は、ラストシーンでの「予定調和の軟着点」を全く嫌みなく貫流させていて、私の中で最も愛着の深い一篇になっている。

この「純愛譚」の中で出し入れされた男女の情感の交叉が、本作の生命線と化して、相当の訴求力を保証していたのである。

意に沿わぬ二つの殺人を遂行した青年武士の中で、「隠し剣鬼の爪」を必要とする状況下に置かれた者の空虚さが広がって、それを遂行せざるを得なかった、「特権階級」としての自らの身分を相対化し、藩の録を返上するに至った。

録を返上して一介の町人になった男は、蝦夷への旅を決意し、「新世界」での新たな人生を開かんとするのだ。

旅の途中で寄ったのは、「純愛譚」の対象人物である女の下だった。

薄倖の女と、二人だけになった男は、自分の思いを吐露していく。

「俺と一緒に行ってはくれねぇか。お前と一緒だば、どげな辛いことでも我慢できる。俺がここさ来たのはな、それ言うためなんだ。どんだ、俺と夫婦になってくれねぇか」

その言葉をこそ待っていた女は、自分の本音を隠し込むのが精一杯だったが、その表情だけは隠し切れなかった。

「あたし、そげなこと聞かれても」

女の心を読み取っていた男には、回りくどい表現を捨てて、直截(ちょくさい)に吐露する。

「なんも、難しいことはねぇ。俺がお前を好きで、お前が俺を好きだば、それでいいなや。俺はお前が好きだ。初めて会ったときから、ずっと好きだ。きえ、お前はどんだ?」
「そげなこと、私、考えたことありすねぇ」
「だば、今、考えてくんねぇか?」

ここで、「間」ができる。

万事控えめな女の自我には、直截な表現を簡単に返すことが、「尻軽」に見られることへの不安も張り付いているが、それ以上に、「町人」宣言をしたと言っても、かつての主人との身分の壁の大きさを、一瞬にして崩してしまうメンタリティが追いついていけないのだ。

「どんだ?考えてくれたか」

ここで、再び「間」ができる。

「それは、旦那はんの、御命令でがんすか?」
「んだ!俺の命令だ!」
「ご命令なら、仕方ありますめぇ」

笑みを返す女の手を握る男のカットが物語の括りになっていく、「純愛譚」のピュアな絡みをベースにした「娯楽時代劇」の逸品を象徴する、この暑苦しくない淡泊な閉じ方は、「自分に正直に生き、信念を貫け」というメッセージが読み取れるものの、全篇を通して説明過剰なくどさがあるが、それが説教臭さに結ばれな い分だけ、私にとって救われた思いでもあった。

良い映画だった。




反撥(ロマン・ポランスキー)

 


若き日のロマン・ポランスキー監督の力量を、遺憾なく発揮した初期の大傑作。

ポーランド移民として、ロンドンで働く姉妹がアパートで共同生活していた。

男性恐怖症の妹キャロルは、姉のヘレンに「疑似同化」することで保持されていた自我の安寧が、妻子持ちの男を毎晩のように部屋に泊める姉の、その奔放な生き方が延長されるに及び、次第に精神的に壊れていく。

洗面所の自分のコップに、姉の愛人の歯ブラシと剃刀が挿してあって、神経質で潔癖なキャロルには我慢し難いばかりか、何より、隣室からの姉のよがり声を聞かされることは、彼女の内深くに封印している心的外傷体験を、加速的にフラッシュバックさせる破壊力を発現させる危うさを高めてしまうのである。

更に厄介なことは、そんな危うさを高めてしまう状況下で、姉が愛人と共に、イタリア旅行に行くという現実は、却って、彼女の不安を増幅させるだけだった。

PTSDという強烈な心理的苦痛を顕在化させつつあったキャロルにとって、ヘレンに対する依存性の高さこそ、ヘレンとの共存を具現化させた心理的風景を覆う隠れ蓑であった。

その隠れ蓑が、キャロルの自己防衛戦略であったからこそ、ヘレンに対する「疑似同化」が有効であったのだろう。

従って、一過的であったとしても、隠れ蓑の喪失は、キャロルの自己防衛戦略が裸形の状態に晒される事態と同義なものになる。

キャロルの反対を押し切って旅行に出た姉のいないアパートの、それほど広くないスペースは、神経症の彼女の性格を反映させるダークな色彩の濃度を高めていくのだ。
 
 電気も点けない部屋で蹲(うずくま)るように潜む成人女性にとって、今や、部屋の外から侵入してくる一切の雑音や機械音は、自分を集中的に攻撃してくる鋭利な切っ先でしかなかった。

 それは、キャロルの「約束された狂気」を発現させてしまう恐怖と地続きなのである。

 「約束された狂気」のルーツに潜む、幼児期の性的虐待という破壊力を、台詞に頼ることなく、映像のみで勝負した本作の切れ味の凄みは、完璧な映像の、完璧な構成力の奇跡的な達成点であった。

 心理学の学習の素材になり得るほどの、一級の名画であると言っていい。




太陽の少年(チアン・ウェン)




物語は、成人したシャオチュンのモノローグで開かれる。

 「北京の変貌は目まぐるしい。あれから20年。近代的な街に変身した。今の北京に昔の面影は見られない。私の思い出も、かき消されてしまった。私の思い出 も、夢か真実かはっきりしない。私の物語は、いつも夏に始まる。暑さの中で自分の欲望を隠せずに、誰もが曝け出す。夏が永遠に続くかのようだった。太陽は 我が物顔で姿を見せ、苛酷なほどの陽を浴びせ、私たちの眼を眩ませていた」

 これが、成人したシャオチュンによる冒頭のモノローグ。

 しかし本作は、この類の多くの映画がそうであるような、気持ち悪いほどのナルシズムで塗りたくられた情感系の暴走に流されることなく、語りの諄(くど)さ が幾分目障りではあったが、しかし淡々としたエピソードを繋ぐ長尺の物語を、全く美化しない筆致で描き切ったスタンスが印象深い一篇だった。

 権力闘争に明け暮れる、中国文化大革命の激動下の北京

下放(農村に送り出した政策)された青年たちに代わって、北京は少年たちの天下だった。

あの夏、シャオチュンはある日、少女ミーランと知り合い、一目惚れする。

当初、「僕の姉さんになってよ」などと言って、暑苦しくアプローチするシャオチュンに対して、まるで歯牙にもかけなかったミーランだったが、シャオチュンの執拗な攻勢で、如何にも不均衡で不相応ながら、暇潰しの感覚で少年の相手役になっていく。

シャオチュンは、毎日のようにミーランに会いにいく。

 「私の人生で最高の一日だった。その、爽やかで鳥肌が立つほどの朝の風。燃える枯れ草の匂いも記憶にある。だが、夏に枯れ草があるだろうか。私の勘違いだとしても、あの夏は全てが草の萌える匂いと共にある」

 しかし、これが少年の至福の日々のピークアウトだった。

本作は、最後まで郷愁のナルシズムに溺れることなく、且つ、鮮度の高いシャープな筆致で、「甘美なる青春の、あの夏の日々」を特化して切り取った映像であった。

 限りなく相対化しても、それでも捨てられない「甘美なる青春の、あの夏の日々」。

 それは幻想かも知れない。しかし、幻想であってもいいと思える何かが、そこにある。

 そこにあるものに熱量を自給し、駈け抜けた日々の記憶が、現在の自分の人生にどこかで繋がっている。

 それは、現在の自分の拠って立つ人生の養分となっているのだ。

素晴らしい映像だった。



マネーボール(ベネット・ミラー)


私は、この映画が最も優れていると思う点の一つに、主人公の人格像を、彼が拘泥する「内的ルール」と言うよりも、「性癖」についてのエピソードを挿入したことにあると考えている。

「自軍のゲームを観戦すると負ける」

 これが、その「内的ルール」である。

なぜ彼は、自らが預かるチームのゲーム観戦を拒むのか。

選手との距離を保持したいとか、或いは、ゲームの中に感情が入り込むことで、彼が信奉するマネーボール理論に亀裂が生じ、それによって、悪影響を受けることを回避するという極めて知的戦略であるという見方も可能である。

しかし私は、以上の文脈を包括してもなお、彼の特徴的な行動傾向をもっとシンプルに考えるべきだと思うのだ。

即ち、彼が自軍のゲーム観戦を拒む最大の理由は、単に、観戦することが怖いからなのである。

なぜ怖いのか。

それは、観戦することによって感情が過剰に入り込み、そこで視界に収めた「敗戦試合」を目 の当りにすることで、彼の感情コントロールが覚束なくなり、それによって、それでなくとも大きくない彼の自我の「ストレス瓶」が、常に飽和状態になってし まう心理状況に陥ることを怖れているからである。

ベネット・ミラー監督も語っていたように、物語の中で一貫して描かれていたのは、まるで、アクション映画の如く動き回るビーンの行動傾向の様態である。

絶えず口の中でガムを噛み続け、交渉相手に対しても、忙しなく喋り続ける彼の行動傾向は、彼が如何に感情過多な人間であることを検証しているだろう。

ゲーム観戦することの怖さを、ビーンは、トレーニングセンターでの運動を繋ぐことによって希釈化させているのである。

それはまさしく、彼にとって、あと2,3時間後に訪れるかも知れない「自軍の勝利」の情報を得ることで、安堵する心境に持っていきたいという強い思いが、彼のこの一連の行為を支え切っているのだ。

それは、彼が期待されながらもメジャーで頓挫したトラウマの原因が、自分の感情コントロールの脆弱さにあるという自己像認知と無縁ではないだろう。

ビーンは、自分の「性癖」の修復力の欠如を理解し得ている。

自分の欠点を理解し得ているのだ。

彼のこの感情過多な性格は、物語の中で、一貫して変わらない人格像として描き出されていた。

だから、自軍のゲーム観戦を拒むという感情が、今や、否定し難いオブセッション(強迫観念)にまで肥大化してしまっていることを物語っている。

要するに、マネーボール理論という、究極の数式で説明される徹底した合理主義精神が、実は同時に、感情過多な心理と共存していることを物語っているのだ。

ビーンのケースは些か過剰であったが、人間のそのような、ごく普通に存在し得る矛盾した人格像をも描き切った心理描写によって、恐らく本作は、一級の人間ドラマに昇華されたと私は考えている。

理論と感情が乖離する人格像だからこそ、彼は、感情コントロールに蕩尽し続ける熱量自給への出し入れを惜しまなかったのである。

そして、そんな異端児だからこそ、未だ道半ばながらも、マネーボール理論による「野球革命」を遂行することで、「旧来の陋習(ろうしゅう)」に拘泥するビジネス戦線に対して問題提示し得たのだろう。

そして、その結果が、必ずしも、彼の理論通りに行かなかったというシビアな現実をも描き出した本作のリアリズムを、私は全面的に受容する者である。

想像以上に素晴らしい映画であった。

 






 



 

















 















 








 















 






 












 





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