2013年3月11日月曜日

特選名画寸評(追加編)②





八月の鯨(リンゼイ・アンダーソン)



これは、「約束された死」への境遇が実感的に迫る、「老境」にする基本的スタンスが異なる老姉妹が、それによって生じる葛藤の心理的補完を、一方が他方に依存的に求める「対比効果」の技法のうちに、鮮やかに浮き彫りにした一級の名画である。

姉の名は、リビー。妹の名は、セーラ。

共に、配偶者に先立たれている高齢の身を、精神的に寄り添い合って生きてきた老姉妹であるが、近年は、全盲という不遇の状態を託つリビーを、元気闊達なセーラが物理的・心理的に支えている。

そんな老姉妹が、去年もそうであったように、今年もまた、ニューイングランドの最北端に位置する白人州、メイン州の海沿いの島にある、セーラ所有の別荘にやって来た。

しかし、偏狭で屈折的自我を抱えるリビーには、「姉妹の関係の復元」というイメージだけが、由々しき何かだった。

リビーの偏狭さに、しばしば苛立つセーラだが、その思いを汲む抱擁力が、決定的なところでリビーを救うのだ。

これが、ラストシーンでのリビーの、感情の反転という構図に流れ込んでいったのである

「八月の鯨」とは、永遠に求めることができないが、それを保持することによって、高齢の老姉妹を、閉鎖系の空間から解放系の空間に駆動させる心理的推進力になっているもの ――  それを、私は「希望」と呼んで間違いないと思う。

セーラに導かれて岬に立つ、リビーの遮断された視界に入ってくる風景は、冒頭で挿入された、思春期時代の姉妹が、美しい自然の懐に抱かれて、闊達に身体疾駆していたイメージそのものであったに違いない。

何度観ても、忘れ難いラストシーン。

 「どう、見える?」とリビー。
 「鯨は行ってしまったわ」とセーラ。
 「分るものですか。そんなこと、分らないわ」

 ラストシーンでのリビーの言葉の中に、本作のメッセージが凝縮されている。

映像は、観る者に、心地良くも、ほんの小さなカタルシスを保証して閉じていくが、しかし観る者は、リビーの行く末に待機しているに違いない、悄悄たるイメージをも喚起させるに充分なものだった。

日常性の中に、小さな満足を繋いでいくセーラには無縁だが、万一、元気なセーラが先に逝ってしまったときのリビーの人生の、陰々滅々(いんいんめつめつ)な破綻的イメージを否定し難いだ。

その辺りの、老姉妹の葛藤と精緻な心情を描き切ったこと。

それが、本作を、並ぶものがない伝説的名画たる所以にしていると言っていい。




ニーチェの馬(タル・ベーラ)



  文明と乖離した「日常性」を繋いで生きている父娘がいる。

じゃがいも2個の食事で足りていた父娘に、「人類滅亡」という「終末論」のイメージの中で、〈死〉のリアリティが肉薄してきたとき、一気に噛みついてきた未知の時間の急進的展開の中で、この慎ましき父娘はどう動き、如何に振る舞ったか。

相変わらず、窓外の風景は、猛烈な風が吹きつけて、今にも、父娘が閉じこもる家屋を破壊する勢いだ。

それはもう、「日常性」で包括される風景ではない。視界ゼロの、終末的な異界の相貌である。

家屋の中で、父は肩を落として、俯(うつむ)いている。裁縫をする娘は、「日常性」を繋いでいる。

裁縫を終えた娘は、いつものように食事の用意をする。

 「どうしたの?真っ暗だわ」
 「ランプを点けろ。忌々しい」
 
 竈(かまど)の火で、ランプの灯りを点(とも)す娘。

 まもなく、油が入れてあるランプの灯りを点そうとしても、点火しなくなる。

 「何が起きてるの?」
 「分らん。寝るぞ」
 「火種まで消えたわ」
 「また、明日、やってみよう」

闇の中の会話である。

遂に、自然光が消滅し、闇の中で、父娘がテーブルで向かい合って座っている。

六日目のことである。

一切の火種を失って、生のじゃがいもを前に、父は娘に命じる。

「食え、食わねばならん」

生のじゃがいもを、一口齧っただけで、断念する父親。

終始、うな垂れたまま、顔を上げることもない娘。

闇に溶融しながら、最期の瞬間(とき)を迎えようとする父娘の沈黙が、ラストカットとなってフェードアウトしていく。

観る者に突き付けて来る鋭利な映像の、優勢なる世界の攻撃限界点が極まったような閉じ方に、今度は、観る者が反撃せねばならないイメージを残像化して、闇への溶融が許されない、言わば、観念に相応の光彩を付与する「知」の過程を開いていくのか。

これは、どれほど辛くとも、それ以外に身過ぎ世過ぎを繋ぐことが叶わない、貧しい農夫の父娘の日常性が、緩やかに、しかし確実に自壊していく物語にオーバーラップさせていく、抜きん出て優れた構築的映像だった。




裏窓(アルフレッド・ヒッチコック)



本作の凄い点は、脚を骨折して、ギプスを嵌める車椅子生活を余儀なくされた報道カメラマンの、その固定された視点のみで物語を構築し得たことにある。

ロールスクリーンが上がることがオープニングのシグナルとなって、まるで舞台劇の如き、以上の極限的な物語設定の内に、映像を観る者も、件のカメラマンの固定された視点のみで物語をフォローしていくことを余儀なくされるのだ。

 そこから開ける、中庭を挟んだ向かい側のアパートの窓を通して、観る者は、他者の「日常性」を「覗き見」する小宇宙に吸収される心地悪さを共有してしまうのである。

ところが、そこはさすがにヒッチコック。

 本作の主人公ジェフの「覗き見」の趣味を、一級のサスペンスに仕立て上げたのだ。

つまり、手持ち撮影によるエクサクタの、高倍率の望遠レンズを使用しての、ジェフの「覗き見」が捕捉した小宇宙が、他者のフラットな「日常性」ではなく、夫婦喧嘩の挙句の果て(?)の、「セールスマンによる妻殺し事件」という「非日常」だったのである。

この地平に辿り着くまでにフェードアウトを繰り返す、長く曲折的な時間の中で放たれる緊張感と不安感こそが、まさに、サスペンスの極意であることを検証した表現技巧の勝利 ―― それが「裏窓」だった。

この映画で、私が興味を持ったのは、主人公であるジェフのキャラクターイメージの「変換」である。

 「退屈とは過剰満足である」

 これは、アブラハム・マズローの「人間性の心理学」から拾った言葉。

 まさに、本作の主人公は、この「過剰満足」という余剰感情の発散という心理の小さな歪みを起点に、その悪趣味を開かせていったという内的経緯をなぞっていった訳である。

 この映画の面白さは、主人公の「過剰満足」を処理するために、本来の「プロ根性」に関わる、他者・状況への過度な関心が分娩した、視覚的情報を駆使する男の「主観の暴走」の全面展開を、一級のサスペンスに仕立て上げたヒッチコック魔術の映像構成力の絶妙な手腕にある。

 「殺人事件」が惹起された「事実」を誰も疑わうことのない物語展開に張り付く、ある種の「曖昧さ」が最後まで澱んでいるにも関わらず、「セールスマンの暴力的侵入」というエピソード挿入の一点によって、殆ど完膚なきまでのサスペンスムービーを構築し切った映像構成力の凄みは、ヒッチコック魔術と呼ぶ以外に ないだろう。






山下敦弘監督は、邦画のフィールドで、私が最も評価し、期待している映像作家である。

同様に、作家性の強い作品を創る監督として評価の高い、西川美和監督の「甘さ」と切れて、切れ味鋭い映像を構築する山下敦弘監督の映像は、「松ヶ根乱射事件」(2006年製作)を現時点での最高到達点と考える、私の度肝を抜く毒気満点の作品の宝庫である。

そんな中で、山下ワールドと些か乖離しながらも、「全共闘の時代」を描いた「マイ・バック・ページ」の切れ味も、一貫してノスタルジックに流さない相対化思考を保持し、表現主体としての冷徹な視線の肝が冴え渡っていて、この上ない小気味良さだった。

「全共闘の時代」に氾濫したズブズブのナルシズムを蹴飛ばすシーンの連射によって、あの時代に呼吸を繋いだ者たちを英雄視しないラストシ一クエンスに、思わず、快哉を叫んだほどであった。

若松孝二監督の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」(2007年製作)を観ると、まるで、この国の当時の状況が「革命」前夜にあり、若者たちの多くがそんな沸騰し切った状況下にあって、「国家権力」と死闘を繰り広げていたと言わんばかりだったが、一切は、「革命」前夜にあると妄想した極左集団が、肝心の「国家権力」と死闘を繰り 広げる以前に自壊していっただけで、それは彼らにとって、殆ど「予定不調和」の哀れなるトラジディでしかなかったのである。

いつの時代でも、「普通は嫌だ」と駄々をこねる自己顕示欲の旺盛な、「青春一直線」の「王道」を闊歩したがる若者が多くいるから、その類の連中だけが、「革命」という甘美なロマンに自己投入していっただけだった。

 それは、未だ、「革命」という言葉が死語と化していなかった時代のレガシーコストであったことの証左でもあるのだ。


本作の主人公の沢田は、「特定的な何者か」に化けられない〈私的状況〉に「後ろめたさ」を覚えていた。

 時代に乗り遅れて、自分だけが安全地帯に閉じこもっていることへの自己嫌悪が、時代を拓くジャーナリストを夢想する沢田の、焦慮し、苛立ちながら閉塞する〈私的状況〉の渦中で揺動する自我を突き動かしていく。

 相手は多分、誰でも良かったのだ。自分の「後ろめたさ」を浄化させてくれる相手ならば、似非革命家であっても良かったのかも知れぬ。



似非革命家と、この男を信じるエリート・ジャーナリストの生態を描き切った本作の乾いた視座こそ、山下ワールドが内包する毒気の凄みなのだ。



「新聞はそんなに偉いんですか?」

 似非革命家を「思想犯」と信じる沢田の、上司への異議申し立てである。



「偉いんだよ。跳ね上がりが。うちは大学新聞、作ってるんじゃねえんだぞ」

 この一言で黙らされてしまった、「社会正義に枯渇する青臭さ」の行き場なき残骸が露わにされていた。



人間の本来的な脆弱さへの洞察力に富んだ佳作であった。




ビヨンド・サイレンス(カロリーヌ・リンク)




「あの子が私から離れて行ってしまう」と父。  
「あなたの親と同じ過ちを犯さないで」と母。
「同じ過ちって?」  
「押し付けはダメ。本人の意見を聞いて」  
「あの子は、私の子だ」  
でも、所有物じゃないでしょ」

聾唖者の、この両親の寝床での会話が、本作の基幹テーマを言い当てている。

クラリネットの練習を娘が始めたことを契機に生まれた、父と娘の微妙な温度差が、聾唖者の夫婦の会話に露わにされていた。

 内部の情感を的確に表現することで、青春は解放感を手に入れる。

 外部世界に架橋するこの解放感によって、青春は限りなく自己を相対化し、青春の内側に封じ込めていた鬱積した思いを浄化していくのである。

 母の死によって、決定的に孤独感を深めた父との距離感は、理解ある母の介在によって保持されていた、比較的、適正な均衡を一気に崩していくのだ。

 適正な均衡を崩された娘の、父に対する不満はストレートに吐露され、愛情独占型の父もまた、占有し切れない娘の感情への苛立ちを吐き出していくのだ。

 これは必ずしも、聾唖者の父と、その言語交通をサポートしてきた娘との特殊な親子関係のうちに限定される何かではないだろう。

 
親子とはそういうものなのだ。

それでも、ごく普通のレベルの思春期に収斂し切れない娘の自立への思いは、クラリネットの演奏を通して手に入れる表現世界への自己投入によって、沈黙と孤独の世界に縛られた父との関係を相対化する意味を持ったと言えるだろう。

 それが、ラストシーンにおける、手話による父と娘の言語交通の結びのうちに昇華されたのである。

 「理解できるよう努力するよ」という父の言葉と、「パパからはずっと離れないわ」という娘の言葉が重なったとき、「ビヨンド・サイレンス」のテーマ性が眩 いまでに立ち上げられ、受験の合否はどうであれ、自分の思いを表現し切ったララの笑みで閉じる、心地良いラストカットに結ばれたのである。

 「ビヨンド・サイレンス」は、幼少時から、屈折的自我が抱えるトラウマを延長させてきた、父との葛藤と和解を通じて、自立的な青春の困難な壁を突き抜けていく自我の、その自己運動の断片を、感傷に流されることなく淡々と描いた秀逸な人間ドラマだった。




こうのとり、たちずさんで(テオ・アンゲロプロス)




これはとてつもなく重く、根源的な問いかけを、観る者に放つ映画である。

 これほどラジカルな問題を真っ向勝負で捉えて、しかもそれを、人間の生きざまの悲哀を絡めて描き切っていく映像世界は、故アンゲロプロス監督の独壇場の感があった。

 これは現代世界史の最も尖った問題の一つである、「国民国家」という物語の崩れ行く不安について、芸術表現のフィールドで観念的に考察した一篇だった。

 「国民国家」という物語。

 それは私たちが素朴に、その身体と自我を預けてきた絶対的な物語である。テオ・アンゲロプロスという先鋭な映像作家は、その物語の崩れ行くさまを、映像の中の様々な仕掛けの内に象徴的に描き出すことで、物語の不安な未来を厳粛なまでに映し出したのである。

それにしても、本作のあの見事なラストシーンはどうだ。

 国境を生命線にする国民国家の危うさをテーマにしたこの映像のラストに、黄色い作業着を着た電線マンたちが登場する。

 直線的に配列されてある電柱に電気工事の作業員が攀(よ)じ登って、電線を架けていく。

 作業のラインが点景になって、空の青を覆い尽くすような淡い紅を、ほんの少し染めたミルク色の雲に映し出されていく。

静謐を湛えた音楽が画面に溶け合って、それ以上ないメッセージを運んで、結ばれた。

 国境を繋いでいくことの困難さと、それを繋ぐ者たちの必死の思いが、この直列のラインで象徴的に表現されていて、映像によるイメージが喚起する力に圧倒された。凄い映像だった。




ブレードランナー(リドリー・スコット)




この映画で何より問題なのは、人間が作り出したレプリカントの内側に形成された感情が、自我と呼べる何かに近いものであるという震撼すべき事態である。

 人間にしか存在しない自我を、レプリカントが持ち得たという事例が、映像の中で端的に拾われていた。

 「俺たちはコンピューターじゃない」
 「人間よ。我思う。故に我あり

 前者は、反乱の先導者である戦闘用ロボット、ネクサス6型のロイ・バティの言葉。

 そして、極め付けな言葉が後者。

 「コギトエルゴスム」という、意識する自我の主体の明晰さに拠って立つデカルト哲学が登場した場面には驚いたが、それを放った主体が、宇宙基地の兵隊慰安 用ロボット、プリスと知れば、レプリカントの自己運動による高機能の内面世界の達成点こそ、「人間」を相対化し得る役割性を強調する何かであったと思わせるのである。

「人間とは何か?」

 結局、この根源的な問いから逃走不能になるのだ。

 ともあれ、ここでの一連の会話は、「生存」の継続の保証を求めるロイ・バティの内側に、「自我」が発生している事実を検証するものである。

 「自我」とは、「生存戦略」の羅針盤であるからだ。

 即ち、人間の本質である「自我」がロボットにまで拡大されていくとき、人間と高機能ロボットの判別をする作業が極めて困難になるということ。

 この映画は、その恐ろしさを描き切っていたからこそ、一級のサイバーパンクの代表作になり得たのである。

 人間とヒューマノイド(アンドロイド=高機能ロボット)を判別するために、常に専門官による、高度で骨の折れる鑑別テストを必要としなければならない滑稽さこそ、この映画の恐ろしさの本質であり、作り手の直截なメッセージでもあるだろう。

多くの人々の多くの解釈、批評等の情報が氾濫し、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が今なお継続中の本作だが、私は、この形而上学的な由々しき一点において、本作はフィルムノワールや、サイエンスフィクションという狭隘なジャンルを突き抜けたと考えている。

 ディストピアの未来世界の暗鬱なイメージを、根源的に払拭し得ない黒く濁んだリアリティを感受してしまうほど、人間であり続けることの厄介さが、何より重く、我が喉元を突き刺して来たのである。




シテール島への船出(テオ・アンゲロプロス)




本作の中で、私に最も鮮烈な印象を与えた構図があった。

 村人たちから厄介者扱いされても、、故郷の村に拘泥する老人スピロが、自分の山小屋を放火されたとき、それを目撃するシーンである。

32年間に及ぶソ連での政治亡命生活を余儀なくされたスピロが、ソ連の客船でギリシャに帰国して来た。

「私だ!」

 これが、ソ連の客船から降りて来たスピロの第一声だった。

 「怖い」

 これが、故郷に入るとき、ふと洩らしたスピロの本音。

 自宅で待つのは、ギリシャに残した妻のカテリーナ。

 しかしスピロには、既にソ連に妻と3人の子を儲けていたのである。

 その事実を知ったためか、自宅台所に閉じこもるカテリーナ。

 スピロは家を去って、町の安宿に宿泊し、翌朝、故郷の村に入っていった。

旧友と共に墓地に行き、一人踊るスピロの躍動感は印象的だが、この場面でのみ、32年ぶりに帰郷した老人の豊かな感情表現が拾われていた。

 しかし、スピロの躍動感は続かない。

 彼は故郷の村をリゾート地にする計画を知って、村人と激しく対立し、再び追放の身になるのである。

 亡命したことで「無国籍者」となったスピロには、永住するべき居場所はないのだ。

 老人の非現実的な理想主義を信じる者も存在しない。

 何よりスピロには、限られた在留期限の問題が横臥(おうが)しているのだ。

 老人の居場所は、社会主義独裁のソ連以外に存在しないのである。

 そんな中での、昔の旧敵との会話。

 「俺は残る」とスピロ。

 昔と全く変わらない男の頑固さを前に、旧敵は言い切った。

 「お前はもう死んだ。存在しないんだ。山を駆け巡っていた時代は終わった。俺たちは内戦で敵味方だったが、俺たちは二人とも負けたんだ」

 スピロの山小屋が放火されたのは、その直後だった。

 私に最も鮮烈な印象を与えた構図が、そこにあった。

山小屋の放火を目撃したときの、荒寥とした丘の上に凛として立つ1本の巨木。

まるでそれは、自分が生まれ育ったギリシャの郷土に居場所を持てない男の孤独をイメージする、故テオ・アンゲロプロスらしい決定的な構図だった。

世界中を巻き込む金融危機へと発展した、ギリシャの巨額の財政赤字の問題は底知れぬ時代の震源地と化したばかりか、映像だけで勝負する稀有な作家を喪ったギリシャ映画界は、今、どこに向かおうとしているのか。



ソナチネ(北野武)




今やシノギで羽振りがいい、北嶋組幹部である村川は、北海道での抗争によって3人の舎弟を喪った代償として、現在のシマを直接の北嶋組組長から譲り受けていたが、その北嶋から沖縄行きを命じられる。

追われるようにして、辿り着いた沖縄の海。

 ブルースカイとブルーオーシャンの果てしない広がりの中では、点景でしかない廃屋の生活拠点は、そこに隠れ込んだ5人のヤクザにとって、「前線」の生臭さを嗅ぎ取るようなイメージとどこかで決定的に切れていた。

 それでも、いつ襲って来るかも分らない敵に備える事態を強いられて、感情と現実が微分裂したかのような迷妄の中で、非日常下の日常性を繋いでいく外的状況に捕捉されたとき、唯でさえ、極道稼業に心労を累加させていた村川は、それ以外にない世界に潜り込んでいく。

 「遊び」の世界への潜入である。

体が緩み、心が緩む。

 彼らの命を守るはずの拳銃が、「遊び」の世界の中の不可欠なアイテムとして機能することで、「前線」の生臭さを削り取る武装解除への振れ具合を加速させていくのだ。

 非日常下の日常性の仮構による、ゆったりした時間が流れていく中で、今や、彼らの拠って立つ、極道の行動規範が分娩した「防衛的正義」の建前すら剝落していく。

ヤクザ稼業への心労を累加させていた本作の主人公が、「約束された死」という「絶対状況」下にあって、「遊び」の世界に潜入していった心理的文脈を読み解くには、「心理的ホメオスタシス」という仮説によってしか説明できないのである。

 従って、この文脈の根っこには、〈死〉と隣接する極道稼業と切れた、もう一つの、普通なる堅気の世界への情感回路が媒介されているようにも見えるのだ。

 言葉を変えれば、抗争への嫌気が、村川をして、このようなゲームの世界によって相対化されていったということになるのだろう。

要するに、ゲームの世界によって相対化されるに足る濁った心情が、村川の心理の根っ子にどっぷりと張り付いているのだ。

 拠って立つ精神面の安寧の基盤を、敢えて仮構せねばならない村川の、内なる濁った心情を浄化すること。この内的要請が、異常なまでに「遊び」の世界に潜入していった、村川の自我を駆動させたのである。

大勢の敵を相手にした、たった一人だけの最終戦争を描く、些かスタイリッシュな映像は、村川の放つマシンガンの発砲の光が炸裂し、屋外に駐車させていある無機質な車の鋼板に乱反射するカットを切り取ること で、観る者に、夜間の花火戦争で映し出された光の点滅を想起させて、執拗に続く最終戦争が、異常なまでに「遊び」の世界に潜入していった男の「幼児退行」のゲームを、無惨に壊した狡猾な者たちへの情動爆発であったことを示唆して閉じていったのである。

ソナチネ」は、北野武流バイオレンス映像の最高到達点である。




山の郵便配達フォ・ジェンチイ


登場人物が限定的な本作の物語の中で、私が最も印象に残っているのは、物語の父子の関係の精緻なクロスの中で描かれた心理的緊張感である。

 父子の間に生まれる緊張感の描写がいいのだ。

 この緊張感を作っているものは何か。

 それは、直截な対話を避けてきた父子の関係に張り付く、言語交通の澱みであると言っていい。

 そして、それ以上に重要な因子は、「全身山里人」としての父にとって、単に「日常」であった「山の郵便配達」の時間と、未だ「半身山里人」である息子に とって、「非日常」の領域にある未知のゾーンへの自己投入への時間が微妙にクロスし、声高にならない程度で確執を生むときの緊張感であるだろう。


この父子の緊張感は、少数民族であるトン族の娘との出会いと、その祭礼によって浄化されながらも、「仕事」としての旅程を繋いでいく。

 そして、この旅程を繋ぐ「日常」、且つ「非日常」の時間の向こうに待機する河渡りのクライマックスシーン。

 このシークエンスの中で、「半身山里人」としての息子が、「全身山里人」としての父を背負うことで、父から息子へ世代の継承と命のリレーを、高らかに結んで見せたのである。

 これが、ラストシーンにおける、息子の「自立行」の最も重要な伏線となって、このような山里では今までもそうであったように、連綿と歴史を繋いでいくというメッセージが、余情のうちに語られるのだ。

 私は、このような文句のつけようのない映画を観るとき、常に、「これは、異なった国の、異なった文化の、異なった環境に生きる人々の物語である」という風に、限りなく相対化するように努めている。


文明の恩恵に浴しながら、それに感謝する気持ちを蹴飛ばして、安直な文明批判にのめり込む欺瞞性だけは御免蒙りたいものである。



ブロードウェイと銃弾(ウディ・アレン)




アーティストの虚構のシナリオを、ギャングの用心棒のリアルな脚本のリライトが、箸にも棒にもかからない類の演劇の虚構性を逆転させていくという本作の物語展開の中で、一番興味深いのは、以下の点に尽きるだろう。

 一端(いっぱし)のアーティスト気取りのデビッドが、既に2作も商業演劇の興行に失敗していながら、「観客の魂を変える芝居も必要だ」などと喚いて、 「そういう話はグリニッジ・ヴィレッジのカフェで素晴らしい芝居だと言うんだな」とプロデューサーに一蹴されても、それに対する反省が全くなく、一切は観劇者の教養の低さと考えてしまう愚かさを持っていること。

 このデビッドは大学で演劇を教科学習し、研究してきたことで、彼なりの芸術論の構築に対して特段の価値を矜持(きょうじ)しているらしく、それが単に知識のフラットな集積でしかないにも拘らず、それを自らの研鑽(けんさん)によって習得された形成的な「知」に加えて、その「知」を補強するに足る、本来的に備わった特別の「才能」の結実と考えてしまう愚かさでもあった。

 そんな男が、三度、類似の過誤を繰り返そうとしていた。

 案の定、蓋を開けてみると、彼のシナリオは相変わらず、興行性を無視した重苦しい芝居であるばかりか、過剰なまでに観念的な台詞の氾濫だった。

 その観念的な演劇の中で起用される俳優も、既に全盛期を過ぎた女優や、ダイエットに失敗した男優であったり、挙句の果ては、スポンサーとなった条件によって、場違いの演劇に参画したボスの愛人だったりする始末。

 そんな何でもありの連中と芝居のリハーサルに入っても、当然の如く、観念的な演出家の虚構の産物である、超観念的な作品の世界の内にスムースに侵入していける訳がなかった。

 様々に問題を抱えた俳優たちから不満の表出を受けても、演出家のデビッドは自分のスタイルを変えられない。

 それが短いスパンの産物であったとしても、形成的に仮構された観念体系のスタイルを簡単に反古にする訳がないからだ。

 そんな気勢に欠ける低調な空気を裂いたのは、ボスの女であるオリーブのボディーガードを務めていた一人のギャング。

 デビッドが提供した堅苦しいスクリプトに対して、「リアルな台詞で、客は芝居にのめり込むんだ」という風な真っ当な異議を唱え、人生のリアリズムを映し 出すようなスクリプトの再現を求めるチーチの鋭い指摘に、当初、反発したデビッドだったが、スクリプトの内容変更の要求を最終的に受容せざるを得なかった のは、デビッド以外の全ての演劇関係者が、チーチの具体的な台詞の提示に賛同したからに他ならなかった。

 この映画の最も重要なテーマは、そこに集約されていると言える。

 結局、グリニッジ・ヴィレッジのカフェで非現実的な演劇論を放射するだけの男には、過剰な観念系を脱色しているという意味において、日常と非日常の巧みな均衡を保持して生きている普通の人間の、普通の生活のリアリズムの本質に肉感的に迫れないということ ―― それに尽きるだろう。




ミッドナイト・イン・パリ(ウディ・アレン)



午前0時を告げる鐘が鳴り響いていた。

夜のパリを彷徨するギルは、年代物のプジョーに乗った人々に誘われて、憧憬の1920年代へとタイムスリップする。

ルを誘(いざな)った世界には、アーネスト・ヘミングウェイ、スコット・フィッツジェラルドとゼルダ・セイヤー夫妻、及び、ガートルード・スタインといっ た、「失われた世代」(従来の価値観に懐疑的なアメリカの小説家、批評家たち)の代表的有名人が居並んでいて、彼らを目の当たりにしたギルは、連夜のように、この異界の世界の住人となっていく。

ギルが、ピカソの愛人となっていたアドリアナを知ったのも、この異界の世界でのこと。

二人は初対面から意気投合し、恋愛の兆候をイメージさせる関係に進展していくには、さして時間を要しなかった。

ギル好みの、「永遠なるロマンティシズム」を具現する、究極の時空を超えた愛である。

ギルとアドリアナは、フレンチ・カンカンで有名な、モンマルトルのムーラン・ルージュに象徴される、ベルエポックの時代のパリにタイムトリップしていく。

ベルエポックの時代こそ、アドリアナの幻想するゴールデンエイジなのである。

だから、彼女は、ギルが憧憬する20年代への未練など寸分も持ち得なかった。

「私、戻りたくないわ。この時代に残りましょ。パリが一番美しく輝いていた時代よ」
「でも、20年代にも、チャールストンや、僕の好きなヘミングウェイやフィッツジェラルドが」
「それは今、現在よ。退屈な時代だわ」
「退屈?なら言うけど、僕の現在は2010年だ」
「どういうこと?」
「今夜、1890年代に来たように、君の時代へスリップした」
「本当?」
「君と同じだ。現在から逃げて、黄金時代へ行きたいと」
「私から見たら、ベルエポックの時代こそ黄金時代よ」
「でも、ベルエポックの彼らは、ルネッサンス期こそ黄金時代と。もし、ミケランジェロと並んで絵が描けるなら、喜んでスリップする。そのミケランジェロは、13世紀辺りに憧れたかも。小さいことだけど、今、分った。夢の中で覚えた不安の訳が」
「どんな夢?」
「怖い夢だった。家に抗菌剤を切らして、歯医者へ行くと、麻酔薬がない。つまり、黄金時代には抗生物質がなかった」
「一体、何の話?」
「もし、この時代に残っても、いずれまた、別の時代に憧れるようになる。その時代こそ、黄金時代と。“現在”って不満なものなんだ。それが人生だから」

  アドリアナもまた、自分と同じ懐古主義だった事実を発見したこと ―― これが、作り手の思いを代弁するかのような、ギルの内側深くに根付いていた厄介な幻想を相対化するに至ったのである。

同時にそれは、特定的な時代のスポットに限定していた、パリに対する狭隘なイメージを払拭させる思いに繋がって、婚約者イネズとの、「生き方」に関わる価値観の違いを顕在化させていく契機になっていく。

「抗生物質がないところにも住めない」と言い切るウディ・アレン監督にとって、「古き良き時代」にタイムトリップする快感は、その時代の空気をほんの少しでも嗅ぐことができれば充足し得るゲームであって、それ以外ではないのだ。

「過去」を美化する発想から免れ得ない人間の、宿痾(しゅくあ)の如き、丸ごと幻想の被膜で覆われた「ノスタルジーの美学」の構造を蹴飛ばす、ウディ・アレン監督の真骨頂が表現された傑作だった。



パピヨン(フランクリン・J・シャフナー)




一度観たら決して忘れることのないラストシーンの、圧倒的な決定力。

「ポン引き」殺しの冤罪によって、フランス領ギアナ(南アメリカ北東部に位置)に流刑されるに至ったパピヨンと、債券偽造の罪でサン・ローランの監獄に収監されたドガの二人。

全く性格が異なる、この二人の男の究極の選択、そして別離。

私が思うに、この二人の究極の選択の差は、単に「自由への渇望」や「勇気の問題」の差ではなく、何よりも「価値観」の差であると言えるだろう。

既に待つべき者を失った場所に戻ることで、約束されない幸福を手に入れる生き方よりも、家畜を育て野菜を栽培することで、自分一人が生きていくに足る生活 が保証される人生に価値を見い出した者と、待つべき者の有無とは無縁に、「人生を無駄にした罪」を内化し、それを克服し得る人生を検証する生き方を保証・ 確認し得るフィールドに相応しい場所を探すという、主体的な自己選択の価値の差でもあった。

 言うまでもなく、前者がドガであり、後者がパピヨンである。

パピヨンにとって、与えられた絶海の孤島で、家畜を育て、野菜を栽培するという人生を選択する行為は、「人生を無駄にした罪」を内化し、それを克服し得る人生を検証する生き方にはならないのだ。

 彼は、彼の人生を無駄にした場所に戻り、そこで市民権を獲得するのが不可能であったら、然るべき場所を選択し、そこで堂々と市民権を獲得することで開いていく人生の、その予約されない振れ方のうちに、「人生を無駄にしない生き方」を検証し得ると考えたのだろう。

 そう把握することで、私はまさに本作は、この映画の脚本を書いたドルトン・トランボという、マッカーシズムのスケープゴートとなった一人の映画人の壮絶な生き方を想起せざるを得なかった。

ドルトン・トランボの執念が結実された本作の凄みは、荒れ狂うマッカーシズムの激浪に呑まれて、失ったものの大切さを知る者の凄みであった。

「パピヨン」の言葉で表現できないほどの感動は、ドルトン・トランボの執念が念写されていたからだろう。



クィーン(スティーヴン・フリアーズ)




若くして君主となったばかりに、一方的に受容することで馴染んできた峻厳な帝王学に即した、「王としてのあるべき姿の理想形」を人前で崩さないこと。

だから、国民に媚びる自己像の脆弱性を晒す愚を排する態度形成の必然性において、過剰なまでの感情投入を拒み、一貫して凛とした君主であることを貫徹する覚悟。

それだけは決して捨てられなかった。

この映画は、エリザベス2世という名の高名なる女王陛下に、かくもシビアな葛藤を迫り、懊悩を深めさせ、自分の臣下である宰相の提言を受容しつつも、頑として、媚を売る懦弱(だじゃく)な自己像にまで堕ちていくことを拒んだ孤高の君主の物語だったと言えるだろう。

この女王には、それだけの覚悟があった。

その真贋性において全く知り得ない者から見れば、自己保身からなのか、ブレアに擦り寄ることで、「王室の近代化」を主唱する人物像として描かれた嫌いがあるチャールズ皇太子を含めて、一貫して非主体的な印象を残した王家の中で、女王が抱え込んだものの大きさを、その内側の見えない辺りにまで潜入し得る者は誰 一人いなかった。

従って、その括りこそが、英国王としてのエリゼベス2世の堅固な自我の最終到達点だったのだ。

だから、物語をそのまま受容する限り、この映画は、たった一人で抱え込んだものの重さに耐え、大自然の懐で一瞬垣間見た、「美しい大鹿」がハンターに追われ て、射止められていく運命のうちに、旧来の陋習(ろうしゅう)を延長させ続けてきただけの、王政のシステムの劣化を自ら見届けることで、新しい時代に見 合った君主の在りようを提示する物語であったということに尽きるだろう。

イエロー・ジャーナリズムにまで成り下がったメディアの劣化もまた、新しき時代が生んだインターネットの加速的なグローバル化の中で、彼らが撒き散らしてき た毒素の分量だけでも相対化されていく近未来のイメージを想念するとき、「揺動する民主主義」との切実な折り合いを突破した果てに、時代のサイズに見合い つつ、ソフトランディングできる時代の到来が具現するか否かについては、相変わらず、闇の世界の迷妄の時間を延長するだろうが、しかしそれでも、「エリザベス二世・女王陛下即位60周年祝祭」を本心から祝ってくれる英国民に対する矜持(きょうじ)を捨てることなく、齢86歳になる最強の女王の存在感の大きさは、今や、「ダイアナ事件」の如き事態に被弾しても怯(ひる)まない強靭さが、眩いばかりに輝いていた。

「ダイアナ事件」の衝撃波の有効期限を想起するとき、やはりこの映画は、ブレアが言ったように、「即位されてからは2500週」の一齣(ひとこま)という把握を包括しつつ、決して時代に迎合することなしに、「あるべき王」としての、そこだけは決して変わらない振舞いを身体化させていく圧倒的なイメージのうちに 昇華されていった物語だった。

「あんなに嫌われているなんて。今の人々は大袈裟な涙を求めるわ。でも、私は苦手なの。感情は抑えてきたわ。騒がず、厳然としていることが、国民の女王に対する望みで、第一の務め。自分は二の次だと。そう育てられ、信じてきたの。子供だった。世の中は変ったわ。だから、“近代化”よね」

 本作は、このエリザベス2世の言葉に到達するまでの物語でもあった。

「美しい大鹿」を視界を捉えた瞬間に極まった、嗚咽に咽ぶ「女王の孤独」の絵柄の提示は、「女王」を演じ続ける一人の女性の内面を、「映画の嘘」を越えて偏見なく観れば、観る者の感銘を決定づける訴求力を持っていたと言えるだろう。



アンチクライスト(ラース・フォン・トリアー)




「愛の宗教」であるはずのキリスト教の欺瞞性が、愛児の「対象喪失」に懊悩する妻を、「正常」なる精神世界に戻すべく苦闘する、セラピストの夫という設定の内 に、まさに現代の「アダムとイヴ」が根源的に負った人間学的テーマ、即ち、人為的な手立てによる救済の可能性のアポリアを描き切ることで、ベルイマンが描いた「神の不在」の問題をも突き抜けて、どのようにしても救われない夫婦の悲劇を極点にまで剔抉(てっけつ)していく。

そこまでいくと、もう、キリスト教の在りようなどという神学論争の一切の文脈と切れてしまうだろう。

どのように振舞っても救われない人生彷徨の、「壮絶なる破綻」の絶望的な振れ方という把握からは、宗教の問題など末梢的な文化装置でしかないからである。

そのような人生が、この世に厳然と存在する。

奇麗事が全く通用しない人生が存在するのだ。

どのように足掻いても、救われようがない人生が存在することのリアリティと無縁であると感じている鑑賞者には、恐らく、こういう種類の映画と馴染むことなどないだろう。

それが、鑑賞者を選んでしまう映像の宿命であるが、それでいいのだと思う。

吐き出して、吐き出して、吐き出し尽くしてもなお、吐き出し尽くさねばならない「狂気」を必要とする映像作家がいて、その「狂気」に触れることで「感受性の亢進」を身体化する鑑賞者がいる。

一切の奇麗事を剥ぎ取った映像それ自身を存分に受容できるが故に、私もまた、そんな鑑賞者の一人に加わった次第である。

いつものように、トリアー監督の作品は忘れようがない映画だった。



マイ・レフトフット(ジム・シェリダン)




「私は今、寂しくないと言えば嘘になります。身障者でも健常者でも、人々に理解されることは万人の願いです。ですが私は、時々、深い孤独に苛まれるので す。人々の中にいても、対話することは叶わぬと諦めざるを得ません。それは、芸術家たちが創造活動を行うときに体験する孤独とは異なるものです。まるで、 私の頭上に俄(にわか)に垂れ込め、私を別世界へさらっていく暗雲の如く。私は椅子にもたれ、この左足が新しいリズムを刻むのを感じています。そして今、 ゆったりと身を委ねています。安らぎと至福の時に」

 これは、生まれながらの重度の脳性小児麻痺に罹患した主人公、クリスティの自伝である「マイ・レフトフット」の中の言葉。

クリスティは、ここで、健常者とは共有できない孤独について語っている。

 それは、概念的に障害及び、障害を負う者の苦痛を想像できても、その苦痛を実感的に共有できないことからくる孤独であり、言わば、本人にしか持ち得ない「絶対孤独」の認知であると言っていい。

 そんなクリスティが、同時に健常者が普通に呼吸する日常世界の只中に、自分の思いを投入していくのだ。

 当然、袈裟斬りに遭うだろう。

 だから、それは非常にリスクの高い行為である。

 それでもクリスティは、自己投入を諦めない。諦めないのだ。

 本作は、孤独を認知しても、「障害者だから負けた」という「退路」に逃げなかった男の物語なのである。

クリスティは、天使の如き「心優しき障害者」ではないのだ。

 そんな偽善とは無縁な男の物語なのである。

 そして何より、本作の主人公の生き方で最も共感を呼ぶのは、一貫して、「疾病利得」(病気であることを利用して利益を得ようとすること)という「最強のカード」を隠れ蓑にしなかったことである。

 「疾病利得」に逃げ込むこともせず、脳性小児麻痺に冒されている「不幸なる身障者」という印象付けによって、「営業」的に「セルフプロモーション」(自己宣伝)しなかったこと ―― これこそが、クリスティの生き方の根柢にあった。

 そこが凄いのだ。




黒いオルフェ(マルセル・カミュ)




そこに住む人々が身も心も存分に炸裂させる、「リオのカーニバル」の賑わいの中で、虐げられてきた黒人同士の一つの愛が奇跡的に分娩された。

 オルフェとユリディスである。

 婚約中のオルフェが、「死神」の仮面を被った男に追われて逃げて来たユリディスを庇い、殆ど一目惚れの如き奇跡の愛が生まれるに至った。

 ユリディスを追う男は、紛れもなく「死神」。



既にユリディスは、この「死神」からの逃走の恐怖によってすっかり疲弊し、否が応にも、彼女の自我のうちに「死への誘い」のイメージが具象化しつつあった。

 婚約者の激しい嫉妬をかってまでも、ユリディスの命を助けようとするオルフェは、その努力虚しく彼女を天宮へと昇天させてしまったのである。

「死神」に命を吸い取られたユリディスの亡骸を抱き上げて、オルフェは太陽に最も近い場所に連れて行こうとするが、そこで足を滑らせて崖から滑落する悲劇によって物語は閉じていった。

 オルフェを慕うリオの少年たちは、見よう見真似で覚えた彼の作った音楽を、彼のギターで弾き、歌い始めたのである。

 その少年たちの拙い調べに乗って、眩い太陽の下、ユリディスの生まれ変わりのような少女が一人、軽快に踊り繋いでいた。

 悲劇によって閉じる映像は、新しい時代を担う少年少女たちの生命の力動感をフィルムに刻むことで、そこに小さくも、未来に思いを託す予定調和のエピソードをメッセージ化したのである。

映像総体を貫流する、この乱痴気騒ぎの如き熱気が集合する「非日常」で、「脱秩序」の炸裂は、その内側で自給する「眩暈感」を沸騰させながらも、人々の熱狂を充分に吸収し、浄化した後で自己完結することで、彼らが呼吸を繋ぐ本来の日常性へと連結させていくのである。

 カーニバルの時空を揺るがす音楽と踊りと、眩く照り返す太陽の丘、そして、そこに生まれた奇跡の愛と悲劇的な破綻。

この絶妙なアンサンブルが、色彩豊かな造形美術の芸術表現にまで高められて、南半球で作られた一つの映像が世界映画史に印象深く刻まれたのである。

 そういう、極めて情感濃度の深い映画だった。




シリアの花嫁(エラン・リクリス)





有名なコメディアンである結婚相手が住むシリアに行けば、2度と帰って来ることができない状況下で、殆ど有無を言わせず選択せざるを得なかったであろう、「写真結婚」の具現を覚悟しての花嫁モナは、イスラエル側が用意してくれた椅子に座って、長時間待機させられるばかり。

「軍事境界線」での、花嫁モナとの今生の別れを惜しんで、モナの家族が思い思いに情感を交叉させるが、事態の停滞に苛立つしかなかった。

 遂に、国際赤十字のジャンヌのギブアップ宣言。

 そのときだった。

 突然、モナの姿が見えなくなった。

 何と花嫁モナは、シリア側の境界に向かって歩き出して行くのだ。

しかし、このラストシーンには最終的な結末がない。

 映像は敢えて、それを描かなかったのである。

 一切は、観る者の判断に任せたのだ。

 要するに、エラン・リクリス監督は、「境界突破」を遂行しようとするヒロインのモナを、ハリウッド的な映像文脈の中に堂々と立ち上げて、「奇跡的勝利」の大団円を描くことを拒んだのである。

 だからそれは、或いは、銃殺されるかも知れない「悲劇」をも予感させる閉じ方であったと言えるだろう。

 「境界突破」の意を決して歩き出して行く花嫁の、果敢な「進軍」の結末を描かずにエンドロールに流れていったのだ。

 やはりそれは、どこまでも、エラン・リクリス監督が言う「少しの希望」でしかないからである。




まぼろし(フランソワ・オゾン)






「夫の死」を受容していないヒロインのマリーは、「愛する夫の不在」の認知すら拒絶する。

夫が突然、避暑地近辺の海岸から姿を消した理由について、彼女なりに懊悩し、その合理的解答を得るための煩悶を重ねたに違いないだろうが、その結果、彼女は、「愛する夫の不在」の認知に逢着したのである。

 「夫から愛される妻」という自己像が、彼女の内側深くに根を張っている、幻想の城砦のうちに依拠し得たからだ。

 従って、「夫の不在」という現実を受容するには、「夫の死」の現実の受容以外に心情的に考えられないが故に、彼女は、「夫の不在」という現実の認知を拒否する以外になかったのである。

 この発想は、現実を根柢から歪める思考であるが、しかし彼女には、それ以外に自己防衛の手段がなかったのだ。

 そんな彼女に決定的な事態が訪れた。

 夫の死の報告である。

 それは、夫婦の夏のバカンスであったランド地方の近くの浜辺で、泳ぎに行くと言って、そのまま行方不明になった夫の水死体が発見されたという、警察からの連絡だった。

 この報告を受けた彼女が、正常な精神状態を保持するのは極めて困難だった。

 内側に封印してきたものが、一気に現実の世界に引き戻されてしまうからである。

 幻想の世界で仮構していた、自己防衛のための都合のいいお伽話が、その根柢から瓦解する危機に陥ったのである。

彼女はもう、「対象喪失」の懊悩から、もう逃げられない。

映像のラストシーン。

 海岸に向かったマリーは、浜の砂を手で掻きながら、存分に嗚咽するのだ。

 「愛する者の死」を受容したのである。

「悲嘆は悲嘆によってのみ癒される」

 グリーフワークの基本命題とも言える言葉だ。

この言葉の重さを充分に痛感させるに足る、寡黙な映像の内面的表現力の高さに脱帽した。

「愛する者の死」を受容する現実の崩壊感覚の危うさという、基幹テーマとは脈絡を持たない余分な贅肉を一切削り取って構築した映像は、ヒロインの内面世界の漂流感が際立つ効果を生み出すに至った。

 とても良く構成された映像だったと思う。




愛の嵐(リリアーナ・カヴァーニ)






これは、加害者であれ、被害者であれ、「地獄を通過して来た者の健全な復元は困難である」という問題意識の下、本来、特化された「狂気」の空間で死ぬべきはずだった男と女が、時代が移ろっても、空洞化された魂に何も埋められず、ただ漫然と生き長らえている心的状況下で、運命的な再会を果たしたことによって化 学反応を起こし、彼らの「遅すぎた死」に追いついていく物語を、一貫して、頽廃的な映像イメージの内に描き切った秀作である。

絶対的な「権力関係」しか存在しない強制収容所の、その出口なき閉塞状況下で、感受性が最も昂ぶる青春前期の身体の総体に、否応なく刷り込まれた倒錯的な性愛によって、その後の人生のクリアな導入口を塞がれてしまった女・ルチアがいる。

そして、そのルチアに、倒錯的な性愛を刷り込んだ男・マックスがいる。

ゲームの如く子供たちを虐殺する行為と、入所検査の場でルチアをカメラに収めるマックスの常軌を逸した振る舞いは、彼の性的嗜好の爛れ切った生態を露呈するものだった。

そして、極めつけは、強制収容所でのSSの破廉恥なパーティーのシーン。

ナチの軍帽を被り、サスペンダーで吊ったズボンを穿いて、上半身裸になった少女ルチアが、まるでヌードショーを披露するように、物憂げな声で歌うのだ。

絶対的権力は絶対に腐敗する。

まして、生殺与奪の権を一方的に掌握する者と、一方的に掌握される者との関係である「権力関係」が下降されていくほど、強制収容所という、特化された「狂気」の空間で形成された両者の関係は、限りなく絶望的に堕ちていく頽廃性を曝すだろう。

蠱惑(こわく)的な臭気を暴力的に嗅ぎとられた挙句、人格の総体に否応なく性的倒錯を刷り込まれて、辛うじて、命を永らえることを保証された女と、確信犯的な残酷を心地良く弄(もてあそ)ぶ時間の渦中に、一回的に自己完結することで、既に、「戦後」への身体の延長を予約していない男には、無意識裡に約束され た〈死〉の世界への、心身の投入の接合点だけが待機していたと言えるのだ。

戦後、それぞれの〈生〉を繋いでいたマックスとルチアが再会した後、女を貪る男を受容し、寧ろ、それを積極的に求めていく女の性的嗜好性の様態が描かれていたことで、そこに「道行」に流れていかざるを得ない、絶望的な「愛の共犯性」を印象づけるからと言って、生殺与奪の権を掌握した男との間に、暴力的に結ば れた「権力関係」の只中で、児童期をほんの少し脱したばかりの少女の心身に、倒錯的な愛を刷り込んでしまった男の「加害者性」と、それによって被弾した女 の、明瞭な「被害者性」を、私たちは峻別せねばならないということである。

そこにこそ、ルチアが被弾した「被害者性」の残酷の極点が寝そべっているのだ。




ハリーとトント (ポール・マザースキー)





アパートから強制的に立ち退きを迫られ、拒絶するハリーの「抵抗」に顕著に表れているように、「老い」とは、拠って立つ「価値観」とか「生きがい」より も、「現在」の自己が置かれる環境下で、自分の居場所をいかに見い出していくかという「居がい」こそ、何より重要であることを教える映画でもあった。

然るに、老人特有の頑迷固陋(がんめいころう)さを持ちながらも、部分的に厄介なその類のメンタリティと共存するかのように、英知(人生知)溢れるハリー の生き方を貫流する特色を列記すれば、「バランス感覚」、「偏見からの解放」、「適正距離感の確保」、「自立心と矜持」という風に説明できるだろう。

長男のバート一家と同居しても、長男の嫁から厭味を言われる前に、直ちに、シカゴに住む長女のシャーリーを訪ねて行く行動の迅速さ。

 そして、その長女とも昔から相性が悪く、長期の同居による相互の人格が蒙る心理的リスクを考慮して、長女から邪険にされなくとも、まるで「飛ぶ鳥跡を濁さず」の潔さで、寒冷のシカゴを去っていく。圧巻なのは、末っ子のエディの下に身を寄せた際のハリーの態度である。

 不動産業が失敗し、妻とも離婚をしていて、老父の前で泣きだすエディに対して、こう言い切ったのだ。 

 「しっかりしろ。また、運が向いてくる。お互い甘えてはいかん。自分で立ち直れ」

 激励・叱咤の思いをストロークしつつ、この老人は、「自分で立ち直れ」と放って見せるのである。

 「一緒には暮らさないが、金は出す」

 如何にも末っ子然とした甘えを見せる相手に、ハリーが結んだこの言葉の中に、本作の矍鑠(かくしゃく)たる老人の生き方のエッセンスがある。

奇麗事の言辞に全く流されず、取り立てて説教臭いエピソードを挿入することなく、淡々と物語を繋ぐ映像構成の完成度は、アメリカ映画らしい臭気を抑制的に放っていて、観る者の心を自然に浄化させるバイプロを置き土産にしていった。

 素晴らしい映像だった。


 



 

血縁関係の希薄な4人の登場人物が、束の間仮構した「家族」という物語が、それを構成する「役割共同体」、「中性共同体」、「情緒的共同体」という幻想の、骨太の骨格によって支えられていなかったこと ―― これが、この映画の全てかも知れない。

「役割」は形骸化し、「性の脱色」を本質とする「中性共同体」が呆気なく壊された、「家族」という物語に「情緒的共同体」を求める方がおかしいのだ。

加えて、「世間体の原理」という心理圧を突き抜けて、どこまでも、自己基準で生き抜く強かな女たちによって、田舎町のコミュニティを取り巻く「空気」をも払拭し去ったのである。

弱含みだが、本作の軟調なテーマ性が、「癒しの空間としての家族」という物語と、「空気」という厄介な代物が内包する、幻想体系に対する存分なアイロニーを持って、ブラックコメディ基調で描き切った一篇だったということが判然とする。

「自分が許せんかった。自分が家族の不幸を漫画にして、賞金もらうような人間やなんて。生まれ変わって、家族と喜びとか悲しみとか、一緒に分かち得るような人間になろうって、本当に頑張ってんよ」

これは、マンガ家志望の妹(清深)が、完璧なまでに自己基準で生きる澄伽の暴力を被弾したときに、自分に寄り添う義兄・宍道への吐露。

「俺たち、家族なんやから。きっと分り合える」

これが宍道の反応であるが、既に、高校生の清深の吐露の中に、束の間仮構した、「家族」という物語の自壊の認知が窺えるのである。

哀しいかな、一人、悶々と懊悩する宍道だけが、「家族」という幻想に縋りつこうとする矛盾の板挟みにあって、自死に振れていくリスクを抱え込んでいる相貌性が露わにされ、痛々しいほどであった。

しかし、そんな痛々しさを拾い上げる物語は、最後まで、「腑抜け」の象徴的人物の思いに寄り添う構成を拒絶する。

「全身シリアスドラマ」を拒絶する映画が拘泥するのは、「狂気」と近接するブラックコメディという戦略以外ではなかった。

「狂気」と近接する本作の破壊力を、「全身シリアスドラマ」で勝負すれば、真面目な日本人は振り向きもしないので、誇張されたキャラクター映画の手法を包括する、「何でもあり」のブラックコメディという戦略が有効だったのだろう。

毒気とユーモアの中に、ほんの少しテーマ性を盛り込んで、辛み少々の、シリアスの味付けをした娯楽映画の逸品だった。







 















 


  











 













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